イヌは、人間にとって最良のパートナーであると言われている。2017年のペットフード協会の調査によると、日本で飼育されているイヌの数は約892万匹にものぼる。一方で近年、イヌの寿命が延長していることに伴い、「がん」を患うイヌの数が増加してきた。しかし、イヌのがんは人間に比べると研究が遅れており、そもそもがんがどのように発生するかなどについてもわかっていないことが多いのだという。

こうした状況のなか、山口大学研究推進体TRAC(Translational Research Unit for Small Animal Cancer)の研究チームは、イヌをはじめとする小動物のがんに関するトランスレーショナル研究を進めている。今回は、TRACの代表を務める山口大学 共同獣医学部の水野拓也教授に、TRACの取り組みやイヌの乳がんに関する研究の詳細、さらには獣医学の意義について、お話を伺った。

基礎研究から臨床応用までを行う組織「TRAC」

——TRACでは、イヌをはじめとする小動物の新たながん治療法開発を目指し、基礎研究から臨床応用まで各分野の専門家がチームとなって研究を進められています。まずは、TRACの研究チームについて教えてください。

TRACのチームは、山口大学の共同獣医学部の教員6名からなります。メンバーはそれぞれ研究室を持っていますので、もともと別々に研究をしていました。ただ、専門は異なりますが、皆、がんに関わる研究テーマを進めていたんです。がんという共通のテーマがあるのであれば、メンバーが集まることで何か横断的な研究ができるのではないか、チームを作ることで1人ではできない研究ができるのではないか、と考えたことがTRAC結成のきっかけでした。

——チームのみなさんの専門はそれぞれ何ですか?

たとえば私は、動物病院で内科医として診療を行いながら、研究室ではイヌの新しいがん治療法の開発を目指して研究を進めています。ほかにも外科医と放射線科医のメンバーがいます。がんの三大治療は「外科手術」「抗がん剤治療」「放射線治療」の3つといわれていますが、内科・外科・放射線科のメンバーが揃っていることで、この3つの手法を組み合わせた治療ができるという点が強みですね。ここに、薬理学の研究者とヒトの乳がんの基礎研究を進める研究者、細胞生物学の研究者を加えて研究を進めています。

——各専門分野の強みを生かすことで、TRACの名前にもある「トランスレーショナルリサーチ」を進めていらっしゃるということですね。

実験室で試験管を使って行うような基礎研究から、病院での実際の症例に応用する臨床研究までを横断的に行うことができるメンバーを集めたのがTRACです。現在では大学の「研究推進体」としてTRACの取り組みを進めていますが、特に研究費がついているわけではないので、各メンバーの研究費を持ち出して研究を行っている状況です。ただ、新しいテーマを始めるにはそれらの研究費だけでは十分ではないため、今回クラウドファンディングにチャレンジすることにしたんです。

山口大学TRACのメンバー

イヌの乳がん発症に関わる遺伝子を明らかにしたい

——クラウドファンディングのイヌの乳がんに関するプロジェクトについて詳しく教えてください。

トランスレーショナルリサーチのテーマのひとつとして、まずはイヌの乳がんを選びました。雌犬に発症する確率が高く、またヒトでも問題になっているがんであるためです。イヌの乳がんは、ホルモンが一要因であるということがわかっています。たとえば、1歳以下のイヌであれば、不妊手術をすることでその発症率を下げることができるんです。しかし、これに対して遺伝子がどう関与しているのか、どういう遺伝子を持ったイヌが乳がんになりやすいかという遺伝的要素については、一切明らかになっていません。私たちは、この乳がんの遺伝的要素についてしっかり調べていきたいと考えています。

——どのようにして調べるのですか。

さまざまな手段がありますが、次世代シークエンサーを使って、これまでに見つかっている乳がんの発生率が高い家系のイヌの全遺伝子配列を解析するというのが、今回のプロジェクトの概要です。同じ犬種で乳ガンになっていないイヌのDNAも解析することで、イヌの乳がんの発症に関わる遺伝子の異常がわかるのではないかと考えています。

——乳がんの発生率が高い家系のイヌは、どのようにして見つかったんですか?

私が診療にあたっていたイヌの家系がどのイヌも皆、乳がんになることに気づいたんです。その家系では、雌犬だけでなく、乳がん発症の確率が低い雄犬までもが乳がんを発症していました。したがってホルモンだけではなく、それ以外の要因、つまり遺伝的要因も乳がん発症に関係しているのではないかと思ったのです。

女優のアンジェリーナ・ジョリーさんが乳がん予防のために乳房切除をしたことは有名ですよね。これは、遺伝子検査の結果で乳がんのリスクが発覚したためです。ヒトの乳がんでは、ある特定の遺伝子に異常があることで発生率が10倍以上も高くなることが知られています。こうした遺伝子異常をイヌでも見つけることができれば、遺伝子異常に対してなんらかの対策をすることで、イヌの乳がんの発生率を下げていくことができるのではないかと考えています。

——そのために、まずはイヌの全遺伝子配列解析をしなければならないということですね。

ある個体に対する全遺伝子配列解析はヒトでは当たり前に行われているのですが、イヌではまったく進んでいない状況です。将来的には、イヌの遺伝子配列解析を自由に簡単にできる組織をつくることを目指しています。飼い主さんからサンプルを送っていただくことで、病気の発症リスクや体質の遺伝的傾向がわかる仕組みをTRACでつくっていきたいんです。そこから明らかになったことを治療に生かしていくこともできますし、ビジネスにもつながります。今回の乳がん研究のプロジェクトは、その突破口となるものであると考えています。

——特にイヌに着目されている理由はなんでしょうか。

イヌは、自然にがんが起こる動物のうち、ヒトに一番近い動物であるといわれています。イヌはヒトと同じくらいの割合でがんになるんです。ヒトと同じような割合で自然にがんが起きる動物は、実はそこまで多くありません。ネコでも起きますが、イヌより発生率は低くなります。

イヌはヒトと同じ環境で暮らしているという点でも、興味深いですよね。たとえば創薬の研究で用いられるモデルマウスは、人為的にがんを発症させたものです。一方でイヌは、短い寿命のなかで自然にがんになりますので、モデルという意味では非常に興味深いと言えます。ヒトと同じ割合でそれぞれのがん種が発症するわけではないので、すべてが良いモデルになるとはいえませんが、がん種別の発症率等が詳細に明らかになってくれば、ヒトのがん研究にも繋がってくるのではないでしょうか。イヌで明らかになったことが、ヒトの病気の研究にも還元できる可能性があります。

 獣医学は「比較生物学」を行うことができる場

——日々の診療で数々の症例を実際に診ていらっしゃったからこそ、今回の乳がん研究のアイディアが生まれてきたのだと思います。

獣医の良いところは、自分で発見した薬や研究室で明らかになったことをすぐに実際の症例に生かせる可能性がある点だと思います。さらに、実際に病気を抱えた動物に対しては、血液や病変の部位をいただくことで、研究室で詳細に調べることもできるわけです。私たちの研究室では、”Clinic to Bench, Bench to Clinic”という言葉を合言葉にしていますが、医療のように役割が細分化されていないからこそ、一方通行ではなく、診療と研究室を常に行き来できる環境を作っていけると考えています。

——水野先生からみて、ほかに獣医や獣医学ならではのおもしろさはどこにあるとお考えですか。

いろんな動物をみることができるのが獣医のおもしろさだと思います。医学部では6年間、ヒトの病気をみるためだけに勉強をしますが、獣医学部では、解剖ひとつとっても、イヌ、ネコ、鳥類、ウシ、ウマ、ブタ……とさまざまな動物のことを勉強しなければなりません。範囲が広いぶん知識が浅くなってしまうというデメリットもありますが、いろいろな動物をみていることで、動物同士の比較をすることができるんですよね。

たとえば私たち獣医は、イヌのがんについて勉強するときにはヒトのがんについても勉強します。ヒトのがんでは肺がんと消化器系のがんが多いのですが、イヌではこれらのがんの例は少ないんです。それはなぜかは、未だ明らかになっていません。しかし、イヌでこれらのがんが起こりにくい理由がわかれば、ヒトのがん研究にも何かしらの貢献ができるかもしれませんよね。私はこれを「比較生物学」と呼んでいます。他の動物との比較で研究を進めていくことができるのは、獣医の強みなのではないでしょうか。獣医学は、このような比較生物学ができる場としても、非常に重要なものであると考えています。

研究者プロフィール:水野拓也教授
山口大学共同獣医学部教授
1972年三重県生まれ。東京大学農学部獣医学科卒、東京大学農学生命科学研究科博士課程修了、ボストン大学医学部博士研究員、東京理科大学生命科学研究所博士研究員、山口大学助教授を経て、2011年より現職。
大学附属動物医療センターでは内科系診療科において内科疾患を幅広く診察している。一方、研究面では、目の前の1頭だけではなく、将来の数多くの犬を救えるような犬のがんの新しい治療を開発することに取り組んでいる。病気を解き明かすヒントは日々の診療のなかにあり、それらをどのように研究に活かすか、また実験室での発見をどのように診療に活かすか、ということを考えながら日々生活している。獣医学から医学へ還元できる発見をするのが大きな目標。

この記事を書いた人

周藤 瞳美
周藤 瞳美
academist Journal 編集長
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。修士(理学)。出版社でIT関連の書籍編集に携わった後、Webニュース媒体の編集記者として取材・執筆・編集業務に従事。2017年に独立。現在は、科学・技術、IT、ビジネス分野を中心に取材・執筆活動を行う。アカデミストでは、academist Journalの編集長としてWebメディアの運営に携わっているほか、クラウドファンディングのプロジェクトページなどコンテンツ制作全般をサポート。学生時代の専門は、計算化学、量子化学。 http://www.suto-hitomi.com/