京浜工業地帯の中心として日本の産業を支えてきた神奈川県・川崎市。ここを拠点として今、世界が注目する日本発の新たな医療技術の研究開発が進められている。この取り組みを主導する川崎市産業振興財団・ナノ医療イノベーションセンター(iCONM)の片岡一則センター長が目指すのは、体内のナノマシンが自力で異常を検出し診断・治療を行う「体内病院」の実現だ。

「体内病院」で病を気にしなくてよい社会を

——iCONMでは「体内病院」の実用化を目指して研究を進められています。まずは体内病院のコンセプトについて教えてください。

私たちiCONMが目指すゴールは、「スマートライフケア社会」の実現です。みなさんも検査のために病院に行くことがあると思いますが、その行為自体がすでに「病」を「気」にしている、いわば「病気」の状態です。iCONMでは、病院がいつも身近にあるような、究極的には検査・診断・治療までを行える病院が体内にあるような状態を構築し、人が自律的に健康になることで、病を気にしなくてよいスマートライフケア社会をつくっていきたいと考えています。

——どのようにして病院が体内にある状態を構築するのですか?

『ミクロの決死圏』というSF映画をご存知ですか? この映画では、ミクロサイズに縮小された医療チームが人体のなかに送り込まれて患部を治療していきます。私はこの世界観を実現したいのです。

——SFで描かれていた世界を現実のものにしていくということですね。

中核となるのは「ナノマシン」という技術です。『ミクロの決死圏』のように人間を小さくすることはできませんが、”乗りもの”は小さくすることができます。そして、その”乗りもの”にさまざまな機能を搭載するのです。これが私たちが開発を進めているナノマシンです。

ナノマシンは血管の中をただ巡回するだけではなく、患部の組織内に入って治療を行う必要があります。そのためには、50nm程度のウイルスサイズにしなければなりません。人間が地球だとすると、ピンポン球くらいの大きさをイメージしてもらえば良いと思います。

——そんな小さなものに病気を治療できるような機能を載せるのは大変そうに思えますが……。

ウイルスサイズのナノマシンの粒子を作るには、「自己組織化」という仕組みを利用します。粒子のもととなる機能性高分子を水中に入れるだけで、自動的に粒子が組み上がるようにするのです。レゴブロックのように、高分子のブロックごとにそれぞれの機能を持たせて全体を組み上げていくというイメージです。

この粒子を、外界からの刺激によって構造が変化するよう設計すれば、粒子の内部に入れておいた薬剤を患部で放出させることなども可能です。たとえば、がん組織では通常の体内環境に比べてpHが下がっているので、pHの変化によってこの粒子が壊れて内部の抗がん剤が出るように設計しておけば、がん組織内だけで抗がん剤を作用させることができます。このような抗がん剤を搭載したナノマシンのドラッグデリバリーシステム(DDS)は、実際に臨床試験まで進んでおり、乳がんとすい臓がんが第3相に入っています。

——ナノマシンの実用化に向けて順調に進んでいるということですね。

ナノマシンを用いた体内病院を構築するには、先ほど説明した薬剤を患部にまで届けるDDSの実用化がまず第一歩となりますが、将来的には「デリバリー」だけではなく、ナノマシンがその場の雰囲気を判断して処置を施す「サービス」を提供する必要があると考えています。宅配便に例えると、ただ荷物を運ぶだけではなく、その場で家具を組み立ててくれたり、調理をしてもらえたりするような世界観を、ナノマシンで実現したいんです。

——現在の課題はありますか。

体内病院では、ナノマシンが常に体内を巡回していなければなりませんので、薬を患部に届けたらそれで終わりではなく、ナノマシンを再利用できるようにする必要があります。そこで現在では、粒子を壊して薬を放出した後に、粒子を構成していた高分子を再度集合させてナノマシンの機能を復活させるという研究も進めています。

脳を再生する、夢のような技術を実現するには

——がんの例をお話しいただきましたが、そのほかに着目されている病気はありますか。

アルツハイマー病や脳腫瘍など脳に関する病気です。脳の難しさは、そのバリア機能にあります。脳は人間にとって重要な器官ですので、脳の血管には、血液脳関門という脳へ異物が入っていかないようにする機能があります。このため、血管を通して脳の中に薬を届けることは非常に難しいのです。

——血液脳関門をナノマシンが通過するようにしなければならないということですね。

最近私たちは、ナノマシンの表面に一種の”分子バーコード”を付加することにより、ナノマシンが血管の内側の細胞に結合して、さらに細胞の中を通過していけるということを明らかにしました。この研究成果を利用して脳に薬や抗体などを送り込むことで、アルツハイマー病やその他の神経変性疾患治療への応用が可能になると考えています。そして将来的には、脳をその場で再生させる「ブレーン・リジェネレーション」の実現を目指します。

——脳の再生医療をその場で行うということですね。夢のような技術ですが……、どのように実現するのでしょうか。

脳の再生医療は難しいと言われていますが、これは脳の神経細胞の発達を促すタンパク質が、半減期の短い不安定な物質であるためです。そこで私たちが考えているのは、メッセンジャーRNA(mRNA)という物質をナノマシンで脳に送り込む方法です。mRNAはタンパク質合成のための情報を持つ分子です。送り込んだmRNAの情報をもとに脳の細胞内で必要なタンパク質が作られるようにすれば、神経細胞の再生が促されるのではないかと思っています。

高等な技術だと思われるかもしれませんが、これは天然のナノマシン「エクソソーム」がやっていることと同じです。細胞から分泌されるエクソソームは、さまざまな物質を別の細胞に運ぶ細胞間の情報伝達ツールとしての役割を持つと考えられています。エクソソームのなかには、mRNAや遺伝子の発現を調節するマイクロRNA(miRNA)も含まれていますので、この機能をお手本にすることで、脳の再生医療に向けた研究を進めていきたいです。

医療の”コンビナート”の中核を担うiCONM

——iCONMでは、体内病院の構築に向けてさまざまなプロジェクトを進められています。iCONMのビジョンについて教えてください。

iCONMは「京浜健康コンビナートの中核として、市民の誇りとなり、夢を叶える医療技術を次々と発信する世界で最もイノベーティブな拠点」となることをビジョンに掲げています。iCONM設立の際、川崎市長から「シビックプライド(市民のプライド)となる研究所になってほしい」と言われました。そして川崎市の市民のみなさんからは「がんやアルツハイマー病を治してほしい」という要望を多くいただきました。がんやアルツハイマー病など市民のみなさんの関心がある疾患を対象にすることで、シビックプライドにつながるような夢のある医療技術を世界に向けて発信していきたいです。

——世界を視野に入れながらも、地域に根ざした研究を行う、ということでしょうか。

そのためにiCONMは、医療の”コンビナート”の中核になる必要があると思っています。これはiCONMの研究者が合宿を行って決めたコンセプトです。工業団地とコンビナートの違いって、何だかわかりますか? 工業団地は、工場が多数集積しているだけですが、コンビナートは、原料などがパイプで繋がることで工場同士が密接に連携しています。コンビナート内の工場は、いわば一蓮托生。iCONMを中心として、そうした地域づくりをしていければと思っています。

——医療のコンビナートを実現させるために、どういった取り組みをされていますか。

iCONMには、年間約3000人もの来訪者があります。特に、川崎市の中高生などを対象とした体験学習に力を入れるなど、川崎市の人たちに密着した活動に取り組んでいます。ドイツでは、マックスプランク研究所が地域に根ざした研究活動を行っており、地方が科学技術を支える構図ができています。これを川崎市でも実現したいのです。川崎市民がこれだけ科学技術に興味を持っているということを、広く示していきたいですね。

——企業や大学との連携も進めていらっしゃいます。

やはり、ひとつの大学や組織のなかでイノベーションを起こすには限界があります。既存の組織の枠組みのなかで活動していても新しいものは生まれてこないので、iCONMではまずさまざまな大学や企業と連携して組織のあり方自体を新しいものにしていきたいと思っています。幸いなことに、iCONMは羽田空港の向かい側にある好立地です。国内にとどまらず、海外との連携も加速させていきたいです。

——将来的に、iCONMをどのような組織にしていきたいと考えられていますか。

医療を基幹産業として川崎市を盛り上げていくためにiCONMは、多くの医療ベンチャー企業を輩出するインキュベーションセンターのような組織になっていくことを目指しています。まさに”医療の羽田空港”です。iCONMという”空港”から、ベンチャー企業という”飛行機”をたくさん飛ばしていきたい。その”飛行機”は、離陸の段階では小型のプロペラ機かもしれませんが、飛行中にだんだんと大型ジェット機にまで育っていけるような仕組みを作っていきたいですね。

研究者プロフィール:片岡一則 iCONMセンター長
公益財団法人川崎市産業振興財団副理事長・ナノ医療イノベーションセンター(iCONM)センター長/東京大学名誉教授・政策ビジョン研究センター特任教授
1950年、東京都生まれ。1974年、東京大学工学部卒業。1979年、東京大学大学院工学系研究科博士課程修了。東京女子医科大学助教授、東京理科大学教授などを経て、1998年より東京大学大学院工学系研究科マテリアル工学専攻教授に就任。2004年より東京大学大学院医学系研究科附属疾患生命工学センター教授を併任。2016年東京大学の定年退職に伴い、現職に着任。日本バイオマテリアル学会賞(1993年)や、ドイツで最も栄誉あるフンボルト賞(2011年)、江崎玲於奈賞(2012年)、高分子学会高分子科学功績賞(2014年)など、受賞多数。2017年に米国工学アカデミー外国人会員に選出。

 

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([PR] 提供:公益財団法人川崎市産業振興財団・ナノ医療イノベーションセンター)

 

この記事を書いた人

周藤 瞳美
周藤 瞳美
フリーランスライター/編集者。お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。修士(理学)。出版社でIT関連の書籍編集に携わった後、Webニュース媒体の編集記者として取材・執筆・編集業務に従事。2017年に独立。現在は、テクノロジー、ビジネス分野を中心に取材・執筆活動を行う。アカデミストでは、academist/academist Journalの運営や広報業務等をサポート。学生時代の専門は、計算化学、量子化学。 https://www.suto-hitomi.com/