Mt.Fuji」は普通、「まうんと・ふじ」と発音するが、実は「ふ」は「FU」でも「HU」でもない。この違いを理解するには、「ふ」をさらに細かい要素に分解していく必要がある。音声学者たちは、国際音声記号(IPA:International Phonetic Alphabet)を開発することで、世界に存在するあらゆる音声を記述しようとしている。しかしIPAは、初学者には難易度が高い印象を与えることもあり、現に学生ウケが良いとはいえないという。そんななか、ポケモンや妖怪ウォッチなど知名度の高い題材を用いることで、音声学の間口を広げようと活動している研究者がいる。それが、慶應義塾大学言語文化研究所の川原繁人准教授だ。今回、IPAカードの作成資金を募るためのクラウドファンディングに挑戦中専修大・平田佐智子氏が、IPAに関するインタビューを行った。

慶應義塾大学言語文化研究所の川原繁人准教授

IPAはどのような場面で使われているのか

平田佐智子 氏(以下、平田):私がIPAを勉強するモチベーションは、「世の中にこんなにたくさんの音声があるなんて面白い!」というところなのですが、IPAは実際に、どのような場面で使われるのでしょうか。

川原繁人 氏(以下、川原):IPAを使えば、多言語の音声を同じ基準で記述できるので、たとえば方言の調査で使われます。実際、IPAが爆発的に広がったきっかけは、イギリスの方言の調査を行うためだったんですね。その伝統は今でも続いていて、未知の言語をIPAで書き取っていく仕事をされている方が、多数いらっしゃいます。

平田:言語聴覚士の方々が使っているという話も聞いたことがあります。

川原:訓練の一環としてやっているところはありますね。言語聴覚士の方々は、実はIPAの拡張版を使っているんです。たとえば、口蓋の一部に裂け目が現れる口蓋裂(こうがいれつ)の患者さんや、吃音症の患者さんの発音を書き取るためには、拡張版が必要になります。

IPA(国際音声記号)の一覧表

平田:なるほど。いずれの場合でも、覚えるのが大変そうです。先日IPAの入門講座を受けたのですが、全然ダメでした……。担当の先生はIPAはツールであって、これだけが全てではないということは仰っていたのですが。

川原:IPAは、言いかたを変えれば、素晴らしいカンペシートです(笑)。無理に覚えずに、必要な音を探せるようになれば良いのではないかと思います。

平田:発音の聞き取りも、予想以上にできませんでした。特に日本の音韻体系を外れると、全く対応できなくなるんですよね。

川原:それはある意味当然です。人間は自分の母語に引き寄せて音を聞いてますからね。外国語の音を聞いたときに、いきなり真似できるほうが珍しいんです。たとえば、日本語には子音と子音が連続する言葉って、あまりないんですね。有名な実験に [ebzo] のような音を日本人がどのように知覚するか確かめた研究があります。試しに、発音してみていただけますか?

平田:「エブゾ」というように、「ブ」が入ってしまいますね……。

川原:そうなんです。「ebzo」の「b」と「z」の間には、物理的な母音はないのですが、心理的には母音が入り、「ebuzo」と聞こえるんですね。実際に脳波を調べてみると、日本人の脳は母音ありと母音なしの区別ができていないという結果も出ているみたいです。つまり、子音と子音のつながりを聞くと、脳が勝手に母音を補完してしまうということです。そう考えると、はじめのうちはできないのが当たり前ですよね。

IPAは発音指導にも役に立つ

平田:IPAは全ての音声の源ですので、たとえば英語の発音指導にも活かせるように思えます。その辺りに関しては、どのようにお考えでしょうか。

川原:効果はあると思いますよ。たとえば、「Mt.Fuji」の「ふじ」は「FUJI」と書くじゃないですか。でも、日本語の「ふ」は「FU」でも「HU」でもないんですよね。音として全然違います。IPAの表の読みかたさえ覚えてしまえば、どう発音すれば良いかが原理的にわかるので、語学教育にも活かされるはずです。

平田:IPAの全てが英語に必要というわけではないので、必要なところだけ覚えて使えると良いかもしれませんね。

川原:また、IPAに英語でも日本語でも出てこない音が出てくるというのも、面白いと思います。

平田:たしかに、全然聞いたことのないヘンテコな音があるように思います。しかも、それが言語音として存在しているというのが面白いです。たとえば、この辺りでしょうか。(IPAの表の一部を指差す)

川原:これは吸着音ですね。クリックと呼ばれています。クリックはアフリカでしか使われていないので、かなりニッチですよ。

平田:でも、言語音として使われているんですよね。

川原:使ってますよ。南アフリカのサッカーチームが日本にきていたときに、アフリカから来た応援団が渋谷にいたのですが、そこで生のクリックを聞きました。いや、これは感動しましたよ。実際のクリックを聞いて、「もしかして、あなたの母語はズールーですか?」と言いたくなったくらいです(笑)。

平田:クリックには、どういう音があるのでしょうか。日本人には発音できなさそうな気がしますが……

川原:そう思われるかもしれませんが、言語音としては使われていないだけで、たとえば舌打ちの音の「チェッ」も、クリックなんですね。

平田:言語音にはなくても、発することはできるということですね。

川原:そうですね。

平田:IPAの表自体は、完成されたものと理解して良いのでしょうか。

川原:実は、いまだに議論されているんです。「Journal of IPA」というマニアックな機関紙があるのですが、時々、新しい記号が必要なのではないか、あるいは既存のこの記号は不要ではないかという論文が出ているので、将来新しい音が追加されるかもしれません。そうなったときには、IPAカードも追加しなければなりませんね(笑)ところで、平田さんが音声学に関心を持ちはじめたのは、いつ頃だったのでしょうか。

現在制作中のIPAカードのサンプル

平田:幼少期のころかもしれません。私は幼いころドイツにいたのですが、当時「R」の発音で言語の壁を感じていました。

川原:ああ、それはわかります。私もドイツでホームステイしたことがあり、お姉さんの名前が「バーバラ(Barbara)」さんだったのですが、中学生の頃の私の耳には、「バーバガ」にしか聞こえませんでした(笑)。

平田:R」は全部「G」に脳内変換して間に合わせる感じですよね。最初はそれでゴマかしていたんですけれども、小学3年生の算数で「gram(グラム)」が出てきてしまい、詰んだ記憶があります(笑)。

川原:ははは。それは誤魔化しきれませんね。

平田:ちょうどその頃、言語には発音が全然違うものがあるらしいことに気づいたんです。太刀打ちできないものが、たくさんあると。

川原:なるほど。その当時の経験が、現在の興味につながっているのかもしれませんね。でも、最初はゴマかしていいんですよ。むしろ、そうであるべきです。あまりIPAに厳密にこだわっていると、それだけでストレスがたまってしまうので。

平田:あと、エジプトのカイロで知り合った方が、パスポート(passport)のことを「バッサボルト」と発音していたのも、記憶に残っています。

川原:アラビア語には、「p」がないですからね。「b」になってしまうんですよね。「p」と「b」の境界がないので、全部bになる。さらに、「r」も「アール」と伸ばさないので、わかりにくいかもしれません。

平田:でも、そういう事例をひとつ一つ紐解いていくプロセスは、とても面白いです。IPAの知識があると、国籍の異なる人たちの発音のどこがどう違うのかがわかるようになるので、今回制作するIPAカードを、世界の言語を理解するためのツールとして使って欲しいなと思います。

人文科学系のクラウドファンディングは盛り上がるのか

平田:私は現在、クラウドファンディングに挑戦しています。人文科学系の研究者はあまり挑戦しない印象があるのですが、その辺りはどのようにお考えでしょうか。

川原:もしかすると、社会に研究を還元する意識が比較的薄いのかもしれません。以前、文科省が「役に立たない学問にはお金をあげない」という発言をして、研究者から文句が出たことがあったじゃないですか。たしかに言い過ぎなところもありますが、各学問を研究する研究者たちが「こういう学問があるんですよ」「社会とはこのように関わっているんですよ」ということを発信しないまま文句を言うのは、おかしいのではないかと感じました。

平田:なるほど。

川原:たしかに専門的な内容への理解を求めるのは難しいですが、その研究が社会にどう貢献しているか、どう関わっているかだけを発信するだけでも良いと思うんです。たとえば私は、将来自分の声が失われると分かっている難病の患者さんの声をあらかじめ録音し、声が失われた後もパソコンを通して再生できる「マイボイス」の開発をお手伝いしているのですが、音声学者がこのようなサポートしていることを発信するだけでも、研究に対する理解は変わってくるのではないでしょうか。

平田:私の専門とする心理学の基礎研究は、外部資金を潤沢に獲得できなくても研究室の維持ができることもあり、ガツガツしていないのかもしれません。だからと言って、研究室に閉じこもっていて良いというわけではないのですが。アウトリーチ活動をしていかないと、これからますますお金は減るわけですからね。

川原:これは音声学に限った話かもしれませんが、他の分野と協業を実現するという意味でも、アウトリーチ活動を行う価値はあると思います。たとえば、過去に電化製品のノイズを減らす技術開発が盛んに行われていた時期がありました。掃除機の機械音がうるさいのでなんとかしてほしい、というようなクレームがあったんですね。そこで、工学系の研究者がノイズをなくすための努力を重ねていくわけですが、それができたら褒められるかといえばそうではなく、次はゴミを吸っている感じがしないというクレームが来るわけです。

平田:これは面白い事例ですね。

川原:この場合では、工学者に「音は人間が聞くものである」という視点が欠けていたんですよね。実際、工学者の方々からは、人文学的な知見が欲しいと言う声があるわけですので、一緒にやれることはたくさんあるように思うんです。

平田:分野ごとに文化が違うので、まずは互いのことを知ってもらうために、情報発信をすることが重要ですよね。川原先生は、一般書もたくさん出されています。

川原:そうですね。以前出した「音とことばの不思議な世界」は音声学の話がメインになっているのですが、現在執筆中の本は、たとえば「サ行の音はさわやかな感じ」というように、音声そのものが何らかのイメージを伴う「音象徴」という現象について、それぞれの章で取り上げていく本になる予定です。2017年12月には発刊しますので、ぜひ読んでみてください。

川原先生の著書「音とことばのふしぎな世界」

平田:これは私は読まないといけない気がします(笑)。

川原:本の中では、以前話題になったポケモン音象徴の分析結果もまとめてありますよ。ポケモンの名前に含まれる濁点が多ければ多いほどポケモンの戦闘力が上がるというような話です。この話は、中国語、英語、ロシア語にも飛び火して、2018年5月に「世界ポケモン音象徴学会」を開催することになったんです(笑)。人生のなかでも思わぬヒットでしたね。

平田:それはすごいですね。ポケモンとなると、学生さんも食いつきそうです。

川原:妖怪ウォッチや、宝塚の芸名などを対象にした研究もあったりしますよ。身のまわりのゲームや名前に関連させることができれば、本来であれば面倒なデータの打ち込み作業でも、そこまで苦にならないんですよね。これから音声学を広げていくためにも、おもしろ系は間違いなく重要です。ぜひ、IPAカードもその流れに乗って、どんどん普及させていってくださいね。

平田:ありがとうございます。まずは、記号と音の対応関係をちゃんと示すというところから、やっていきたいと思います。今日はありがとうございました。

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平田佐智子氏のクラウドファンディング「IPAカードを作り、音声学の魅力を広めたい!」、2017年12月2日(土)まで支援受付中です。ここでしか手に入らないIPAカードを、ぜひご購入ください!

この記事を書いた人

柴藤 亮介
柴藤 亮介
アカデミスト株式会社代表取締役。2013年3月に首都大学東京博士後期課程を単位取得退学。研究アイデアや魅力を共有することで、資金や人材、情報を集め、研究が発展する世界観を実現するために、2014年4月に日本初の学術系クラウドファンディングサイト「academist」をリリースした。大学院時代は、原子核理論研究室に在籍して、極低温原子気体を用いた量子多体問題の研究に取り組んだ。