なぜ、東大入試の合否を「じゃんけん」で決めてはいけないのだろうか。コンビニでパスタを買うときに、なぜ「試験」が課されないのだろうか。私たちの身のまわりには、経済学の言葉でいうところの「メカニズム」がたくさん存在している。香港科技大・川口康平助教授は、経済学者の仕事は、この「メカニズム」を追求し、社会の厚生(Welfare)を高めることにあるとする。本記事では川口助教授に、経済学の目指すところと専門である産業経済学について、詳しくお話を伺った。

——経済学というのは、何を目的にした学問なのでしょうか。

抽象的な言いかたになりますが、社会の「厚生(Welfare)」をどう高めるかを考える学問です。

——厚生とは、どのような意味で使われているのでしょうか。

たとえば、給食が余った状況を考えましょう。できれば残さずに配分したいですよね。これは「資源配分問題」と言われる、経済学の最も基本的な問題です。たとえば、学生が40人いて、カレーは1人分だけ残っているとします。この場合、どうやってカレーを配分しますか?

——「じゃんけん」や「早い者勝ち」でしょうか。

それでも良いですが、別に腕相撲で決めても、話し合いで決めるのもありですよね。いろいろな設定の仕方が考えられて、それぞれの仕組みのことを経済学では「メカニズム」と呼んでいます。「じゃんけん」では、参加者全員がグーかチョキかパーを同時に提示することで勝ち負けが決まり勝った人がカレーを手に入れる、というプロトコルがあるわけですね。このプロセスを通じて、カレーという希少な財の配分方法が決まります。

——カレーだったら、メカニズムは「じゃんけん」で良さそうです。

そうですね。一方で、コンビニでパスタを買うときには、私たちはお金を支払うことでパスタをもらえるというメカニズムに従っています。店員と「じゃんけん」して勝ったとしても、パスタはもらえませんよね。

——そういう世界があるとおもしろそうですが、実際には機能しないでしょうね。

私たちは、さまざまなメカニズムのなかで生きています。あるメカニズムのもとで特定の行動をすると、メカニズムが特定の結果を返してくれて、私たちはその結果の「良し悪し」を判定するわけです。この良し悪しの総和のようなものが「厚生」です。

——なるほど。人々にとって「良い」メカニズムがたくさん存在すれば、社会の厚生が高まっていくと。

ただし、厚生をどのように評価するかという問題は残ります。「じゃんけん」で物事を決めるのは、極めて公平なんですね。スタート地点で差がなく、何かを得られる結果が個々の属性によらずランダムに決まりますので。カレーの配分問題では、この公平性が重要視されるように思います。

一方で、東大入試の合否を「じゃんけん」で決めるとなると、多くの人たちは反対すると思うんですよ。大学でちゃんと勉強して、社会に貢献できる人材に大学に入ってほしいという大衆の思惑もありますし、もっと個人的なレベルでいうと、東大に入るかどうかで就職先も変わってきますからね。このように、人々に「良い」とされる結果が、それぞれどういうメカニズムから生まれてくるのかを考え、提言していくことが、経済学者の仕事です。

——経済学の研究は、どのような問いからスタートするのでしょうか。

まずは、「賃金の下限を市場の価格決定メカニズムを無視して定めた場合に、雇用は減るのか?」というように、固有名詞を含まない形で普遍的な問いを立てます。次に、この問いを検証をするために、検証すべきデータを探します。たとえば、ニュージャージー州の1993年の最低賃金に関するデータを使って、フルタイムで働くバーガーキングの雇用者の増減を調べる、というようなイメージです。

——はじめに普遍的な問いを立てて、検証すべきデータを探し、検証を進めていくと。

この段階では、その研究者が選んだデータを使ったときのみに言えることなので、結論は普遍的なものではありません。しかし、はじめの一歩としては非常に重要なんですね。検証結果がまとめられた論文が出版された後に、「この問いはこのデータでも問題なさそうだ」「このデータではマズそうだ」という議論が行われて、普遍的な見解を導き出していくことになります。

——最初のステップだけでも、かなり大変そうな印象を受けます。

これが、相当難しいんですよ。先ほどの問いでも、どこの地域なのか、いつの時期の賃金上昇なのか、どのような雇用形態なのか、どの店舗なのか……というように、普遍的な問いを個別のデータに落としこむパターンが無限にあるんです。最近僕が書いた論文でも、論文誌の審査員に詳細に指摘された結果、表が100以上になりましたからね(笑)。このように経済学では研究の「頑健性」を重視しています。

——膨大な作業ですね……。川口さんご自身は、現在どのような研究をされているのでしょうか。

産業経済学の研究をしています。企業や消費者が、特定の環境のもとでどういう戦略をとるのかを分析することで、独占禁止法や知的財産権の政策に提言を行うことが、分野全体の目標です。

——具体的な事例について、教えていただけますか。

最近、出版業界の「再販売価格維持制度(再販制度)」に関する研究をはじめました。たとえば家電では、メーカーは販売価格を決めることができずに、家電量販店が自由に価格を決めることができるので、店によって商品の価格が違います。しかし、出版物では再販制度が認められていますので、出版社が本の価格を自由に決めることができるんです。実際に、どの書店でも同じ価格で本が売られていますよね。僕がやろうとしていることは、書籍に対する再販制度を認めることで、厚生は高まるのかどうかという実証分析です。

——おもしろいですね。消費者としては価格が下がると嬉しいので、再販制度がないほうが良いように思えます。

そうですよね。一方で、書店からすると「需要の不確実性」に悩まされることになります。書店は需要が判明する前に、在庫を仕入れなくてはなりません。たくさん仕入れた後で商品に需要がないことがわかれば、書籍の値段を下げることになります。これは消費者にとっては良いことですが、書店は赤字です。すると書店は、継続的に仕入れる予定だった書籍を入荷しないか取り扱う書籍数を減らす、つまり価格を上げることになります。この場合、消費者としてはいかがでしょうか。

——書籍が買えなくなるか、価格が上がると思うと、微妙ですね。

そうなんです。需要がないときは値段が下がるので良いですが、その後で需要があることが判明したときには、商品がなくなるまたは値段を上げなくてはならないので、消費者も書店も損をするわけです。書店の立場になると、再販制度があるほうが安心ですよね。僕は、需要に不確実性がある状況から、再販制度を外すと各書店がどのような行動に出るのか、そしてその結果、消費者の厚生はどうなるのかについてデータにもとづいたシミュレーションで調べてみたいと思っています。


——成果が出たら、ぜひ詳しく教えていただきたいです。ところで川口さんは、何がきっかけで経済学に興味を持たれたのでしょうか。

大学1〜2年生の頃は東大の理科一類に在籍していたのですが、大学3年生からは教養学部で表象文化論の勉強をしていました。ただ人文系の学問では、なぜこのようなことが起きたかという分析はできるのですが、ではどうしたら良いのかという話がなかなか出てこなくて、僕の性格には合いませんでした。現行制度をこう変えたら人々の行動がこう変わり、結果として社会が良くなるというような提言ができる学問をやりたいと思って、経済学を選びました。

——経済学と聞くと、資本主義の限界を語るというような書籍を見かけることが多いのですが、川口さんのご専門分野から、国家のような大きな仕組みに対する知見は得られるのでしょうか。

現段階の僕の力量では、新規性のあることは言えません。ここで難しいのは、経済学者はどこかの時点で「長老化」する傾向にあることです。40代ぐらいまでは研究を進めて論文を書くのですが、50代ぐらいになると「こんな研究くだらん」というようなことを言い、ヒゲを生やして仙人みたいになって、資本主義への提言とかを言いはじめるんですよね(笑)。そういう背景のなかで、大きなことを言えるのかと思うと、なかなか難しいです。ただ、過去100年の統計を見る限り、物事は良くなり続けていると思いますよ。

——社会の厚生は拡大しているということでしょうか。

そうですね。よく言われる国民総生産(GDP)は、厚生ではありません。あくまでも厚生を生み出す「もと」なんですね。たとえば、同じ収入だとしても買えるもののバラエティが増えたら、それだけ幸せになれますよね。また、平均寿命が1年増えると、人生をその分楽しめるじゃないですか。

——おもしろい見方ですね。生きかたの多様性も、厚生拡大に貢献している気がします。

さらに、自分がいつ生活できなくなるかわからない状況と、最低限の生活が保障されている状況などのように、GDP以外のパラメターを含めて厚生の成長を評価すると、日本は割と上位に入ってくるんですね。そういう意味では、日本は意外と成長していると言うこともできるんです。

——なるほど。ところで、川口さんも「長老化」する可能性はあるのでしょうか。

うーん、どうでしょうね(笑)。できれば、具体的な政策提言をしていたいです。僕は大枠でいうと「ミクロ実証」の分野にいるのですが、その理由は、研究の手続きの全てのステップに一定の自信が持てるからなんですよ。マクロになると国単位で物事を考えなければならないので、過去50年間のデータを集めたとしても、50個のデータにしかなりません。国が違えば制度も変わってくるので、理論を検証するもの難しく、主張がどうしても思弁的になってしまうんです。これは研究者の能力の問題ではなく、問題自体が難しいので仕方ないと思います。

——問題にアプローチする方法として、どのようなものが考えられるのでしょうか。

最近では、トマ・ピケティの「21世紀の資本」で話題になったように、データを「細かく」「長く」みる流れになってきていて、それはおもしろいと思っています。長期データを作ることで、これまで常識だと思われていたことが、実は短期間限定の話であるということが言える可能性があるんですよね。

——さいごに、研究者として成し遂げたい目標があれば教えてください。

現在は、既存の分析ツールを使った実証分析を進めているのですが、将来的には、分析ツール自体をアップデートしていきたいと思っています。つまり、社会からデータを抽出し、分析を進め、結果に基づいて政策の意思決定する。このプロセス自体を、経済学の理論に取り入れてしまおうということです。これは大きな野望になりますので、まずはそのなかでも小さなトピックに注目して、スタート地点に立てるような研究を進めていきたいと思います。

研究者プロフィール:川口康平(かわぐち・こうへい)助教授

香港科技大ビジネススクール助教授。2015年6月にロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで経済学博士号を取得。2015年7月から2017年7月まで一橋大学大学院経済学研究科講師。2017年8月から現職。専門は実証産業組織論、計量マーケティング、ミクロ計量経済学。

この記事を書いた人

柴藤 亮介
柴藤 亮介
アカデミスト株式会社代表取締役。2013年3月に首都大学東京博士後期課程を単位取得退学。研究アイデアや魅力を共有することで、資金や人材、情報を集め、研究が発展する世界観を実現するために、2014年4月に日本初の学術系クラウドファンディングサイト「academist」をリリースした。大学院時代は、原子核理論研究室に在籍して、極低温原子気体を用いた量子多体問題の研究に取り組んだ。