風船がふくらんでいくようすを想像してみよう。はじめは、グニャリとしたゴムのかたまりであり、外からの刺激に強く、針を刺しても割れることはない。しかし、風船に空気を入れつづけていくと、どんどん刺激に弱くなり、大きくふくらんだ風船は、針で軽く突いただけでこなごなに吹き飛んでしまう。風船が割れた原因は、針を刺したことだけではなく、ふくらませたことによる不安定さにもあると言える。

ディディエ・ソネットは、このような破壊現象の専門家であり、過去30年間で450本を超える論文を出した実績を持つ。彼の仕事のひとつが、ロケットの高圧タンクに関する研究だ。ロケットのエンジンを燃焼させるためには、物質をきわめて高い圧力下に保管する必要があり、そのタンクの素材として、合成繊維「ケブラー」が採用されていた。軍の防弾チョッキにも使われているこのケブラーは、強度が高く、高圧下でもビクともしない。

しかし、たまに何の前兆もなく、タンクに生じたちいさなヒビが大きな亀裂へと化け、タンクが破裂するという問題を抱えていたという。ふくらんだ風船自体の持つ不安定さと同じように、タンク自体の不安定さにより、破裂が生じるのだ。技術者たちは、この原因をつきとめようとしたが、なかなか良い解決策が見つからずに、途方に暮れていたようだ。

それを解決した人物が、ソネットだ。彼は、高圧タンクの破裂のような現象が起こる前には、それよりもちいさな現象の起こる頻度が「対数周期」で増えていくことを突き止めた。対数周期というのは、たとえば、タンクに最初のヒビが入るまてに10000秒かかるとすると、2つめのヒビが入るまでには1000秒、3つめまでは100秒というように、時間間隔が対数的になるということだ。ソネットは、タンクにヒビが入ることで生じる音波が対数周期的に増えていくことが、タンク破裂の兆候であることを明らかにしたのである。

幅広い分野に興味を持つソネットは、高圧タンクのみならず、地震やてんかん発作の予測をはじめ、さまざまな自然現象や社会現象のなかに対数周期を見出している。そのなかでも、株価の暴落を予言した点が興味深い。1997年の夏、彼は大量の株価のデータを精査した結果、特定のパターンを発見し、同年10月末に株価が暴落することを言い当てた。偶然のできごとのように思えるが、一度だけではなく、数々の株価暴落の時期を「事前に」提示し、見事に的中させている。

しかし、株価暴落の時期の予測などと聞くと、どうしても違和感を覚えてしまう。なぜなら、自然現象の振る舞いを予測することとは異なり、株価は人間の気まぐれな行動や集団心理の影響に左右されるからだ。また、理論を適応させるチャンスも少なく、同じ環境で追試を行うこともできないため、理論の信頼性を「再現性」で支えることは難しい。

実際、ソネットがマクロヘッジファンドの講演で、2007年の終わりには中国のバブルは崩壊あるいは維持できなくなる旨の発言をしたという。すると、ヘッジファンドの責任者たちは次のように反論したそうだ。

「ディディエ君、市場は確かに過剰評価されているかもしれない。でも忘れていることがある。2008年には北京オリンピックがあるから、中国政府が経済を管理することは明らかだし、問題を避けるためなら何だってする。株式市場も管理するだろう」

だが、ソネットの講演から3週間後に、市場は下落した。もちろん、ソネットの予測がヘッジファンドの経験知に基づいた予測よりも常に正確であるかどうかはわからない。しかし、株価の動きを予想する理論を作り、実際のデータと照合し、理論の欠陥を見付け、それを再構築するプロセスを経て発展してきた経済物理学の研究手法が、少しずつ実績を残しはじめていることは間違いない。

本書は、古典金融理論を発展させたバシュリエ、オズボーン、マンデルブロをはじめ、実践的な理論を組み立てたソープ、ブラック、ファーマー、ソネット、マラニーを主人公に構成された「経済物理学史」の入門書であると言える。ソネットをはじめ、登場人物たちの興味の広さや非凡な着想、行動力に驚かされるのみならず、通読することにより、経済物理学というひとつの学問の誕生と進化をプロセスについて学べることが、本書の最大の魅力である。

この記事を書いた人

柴藤 亮介
柴藤 亮介
アカデミスト株式会社代表取締役。2013年3月に首都大学東京博士後期課程を単位取得退学。研究アイデアや魅力を共有することで、資金や人材、情報を集め、研究が発展する世界観を実現するために、2014年4月に日本初の学術系クラウドファンディングサイト「academist」をリリースした。大学院時代は、原子核理論研究室に在籍して、極低温原子気体を用いた量子多体問題の研究に取り組んだ。