【「政策のための科学」とは何か? #4】幹細胞生物学者としての経験をもとに、”内側”から再生医療の普及に貢献する – 神奈川県立保健福祉大学・八代嘉美教授
再生医療に関する研究開発が世界的に加速している。特に、高齢化社会への対応や医療費などの問題を抱えた日本においては、非常に期待されている領域だ。しかし、その実用化と普及にあたっては、コストの高さが障壁となる可能性が指摘されつつある。
神奈川県立保健福祉大学の八代嘉美教授は、SciREX事業のRISTEXプロジェクト「コストの観点からみた再生医療普及のための 学際的リサーチ」の代表者として、実用化されつつある製品や技術に対する事例研究とステークホルダーに対するアンケート調査などを通じて、実用化に関するデータやコスト情報を集めるとともに、研究開発や治療についての費用対効果分析を行っている。
もともと幹細胞生物学の研究者として再生医療の基礎研究に従事していた八代教授。同プロジェクトの背景には、再生医療に対する研究開発を効果的に推進し、国民が広くその成果を享受できるようにしたいという思いがある。連載最終回となる今回は、同プロジェクトの詳細や八代教授が幹細胞生物学者として科学振興政策に向けた学際的な調査研究に興味を持った経緯について、お話を伺った。
日本における再生医療の現在地
——現在の再生医療を取り巻く環境について教えてください。
日本国内で再生医療が注目を浴びるようになったきっかけは、2012年の京都大学・山中伸弥教授のノーベル医学生理学賞受賞、そして2013年の「再生医療を国民が迅速かつ安全に受けられるようにするための施策の総合的な推進に関する法律(再生医療推進法)」の成立です。
続いて2014年に「再生医療等の安全性の確保等に関する法律(安全確保法)」ならびに、旧薬事法が改定された「医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律(薬機法)」が施行されたことで、再生医療に関する製品開発や臨床応用が加速していきます。薬機法では、従来の医薬品や医療機器とは別に「再生医療等製品」が新たに定義されており、2018年度までに再生医療等製品として5つの製品が承認されている状況です。
——再生医療に関する製品には、具体的にはどのようなものがありますか。
古いものですと、1980年代ごろより研究されている自家培養皮膚が例としてあげられます。これは、正常な自分の皮膚から表皮細胞を取り出して人工的に培養し、皮膚のようにシート状にしたものを火傷などの損傷部位に移植するというアメリカ発祥の技術がもとになったもので、日本で一番最初に承認された再生医療等製品です。
比較的新しい製品としては、心筋シートがあります。心筋梗塞などで壊死してしまった心臓表面に対してシート状の細胞を貼り付けることで、心筋機能を再生させようというアプローチですね。
——一般の医薬品に比べて再生医療製品の実用化にはどれくらいの時間が掛かるものなのですか。
日本の一般的な医薬品の場合、まず動物試験や品質試験を通じて有効性・安全性を確認する前臨床試験に3-5年掛かります。次の臨床試験(治験)では第Ⅰ相-第Ⅲ相の3ステップで、ヒトでの安全性と有効性について確認します。この段階でも3-7年は掛かります。その後の国への承認申請にも1-2年ほど掛かりますので、トータルでの開発期間は約10年以上になるといわれています。
当然、再生医療の分野でも承認までの期間については議論がありました。しかし、2014年に施行された薬機法において、一定の条件を満たした場合に新薬を早期承認する制度が創設されました。この制度は、有効な治療法が乏しく患者数が少ない重篤な疾患に対する医薬品について、有効性や安全性を合理的な方法で一定程度確認したうえで、製造・販売後に有効性や安全性を再確認するために必要な調査を行うことを条件として早期に承認する仕組みです。ただし市場に出ているあいだに有効性や安全性を証明できるだけのデータを集められなければ、承認は取り消されます。
民間企業の臨床試験にかかる費用を国民が助成することになるという意見もありますが、これまで治療法がなかった疾患の患者さんが、有効性が科学的に推定できる治療法を受けることができるのはメリットのひとつです。再生医療は、こうした制度が創設されたきっかけにもなっています。
再生医療のコスト計算手法を考える
——八代先生はこれまでに「コストの観点からみた再生医療普及のための 学際的リサーチ」プロジェクトを進められてきました。コストの面からみると、日本の再生医療はどういう状況にありますか。
再生医療のコスト計算手法には、まだ確立されたものはありません。再生医療においては、細胞など従来の医薬品材料にはなかった生物由来の材料を利用しているため、品質の一定性や歩留まり率がわかりづらく、従来の薬事承認プロセスにおける安全性や有効性、あるいは工場でのベリフィケーションやバリデーション(品質保証)をそのまま提供できるかどうかが未知な状況です。流通経費などもこれまでの薬価計算とは異なる可能性があります。
——従来の医薬品はどのようにして薬価が決められているのですか。
日本の場合は、既存の薬品や治療法に類似のものがあれば、それと比べてどのくらい効果があるかを判断基準にする「類似薬効比較方式」が一般的ですが、革新的な薬や他に比較する薬がない場合には、原価を積み上げて計算する「原価計算方式」を採用しています。
したがって私のプロジェクトでは、再生医療における原価の情報をできる限り収集して、コスト計算や有効性評価の枠組みについて一定のコンセンサスを形成することを目指しています。
産学官民が複雑に関係する再生医療
——再生医療の普及には、政府、大学、民間企業、一般市民などさまざまなステークホルダーが関わってくるかと思います。
再生医療に関わるステークホルダーについては現在整理している段階ですが、大きく産官学民に分類して考えています。特に産業界の構造は複雑で、再生医療等製品を作る製薬企業があれば、治験のコンサルテーションをする企業もあります。周辺産業として、細胞を培養する恒温槽や、ホコリのない空間で操作するためのクリーンベンチといった大型装置を扱う会社もありますし、試薬を販売していたり、ピペットやビーカーといった理化学機器のメーカーもあったりします。このような多様な産業構造に対して、どこに注力すべきかということを断言できる段階にはいまだ至っていません。
——一般市民を巻き込んだ議論はありますか。
市民の立場からのアドボカシー(政策提言)が十分ではないというのが日本の現状です。風土の違いもありますが、たとえばアメリカでは、患者団体のロビイング活動が活発で、政治に対する発言の影響力は大きいです。日本にもいくつか団体はありますが、あまり可視化されていませんよね。
また、アメリカで開催されている「World Stem Cell Summit」というイベントでは、政府関係者がレギュレーションに関する話をしたり、研究者が研究発表をしたり、市民によるアドボカシーのセッションがあったりなど、産官学民を巻き込んだ議論が行われています。日本にはそういう場があまりありません。今後、学会が主導して取り組んでいかなければならないと考えています。
——一般市民を巻き込んだ議論をうまく進めていくためには何が必要でしょうか。
一般市民の方からは、再生医療の実用化に掛かる費用についての質問を多く受けます。再生医療に関するコストへの社会の関心は高いといえるでしょう。一方で、わたしたちの調査によって、現場の研究者は、コストに言及する優先順位は高く考えていないことがわかっています。コストはどうでもいいということでなく、現段階では社会に提供できていないので、軽々なことは言えないと考えているのです。こうした一般市民と研究者とのすれ違いは解消していきたいと考えています。また研究費の配分や研究者の雇用問題などを考える際にも、コストの話は避けては通れません。コストを含め、エコシステムとして再生医療を捉えていく必要性を感じています。
——現場の研究者のみなさんは再生医療を取り巻く現状をどう考えられているのでしょうか。
これは個人的に思っていることですが、私たちより上の世代の先生方は社会に対する意識は高いです。1999年頃、ヒトES細胞樹立からヒトES細胞研究を行うルールがつくられていくまでの過程を現場の研究者として目の当たりにしているので、現実感が違うのだと思います。ES細胞研究が大きな制約を課せられてしまった状況で、法律や倫理、哲学の専門家だけでルールを決めるのではなく、社会を味方につけなければ研究をすることができないという実感を持っているひとは少なくありません。
一方で、若手研究者も、研究不正などが多発した状況下で、社会に発言する必要は感じています。しかし、意識調査を実施した結果、若手研究者たちは重要だと認識しながらも、実際にはできていないという状況が明らかになってきました。
——それはなぜですか。
研究室内での理解や自分のメリットにつながらない、ということを挙げる回答が多いです。報告書には新聞やテレビなどメディアに掲載された実績を書く欄はありますが、だからといって加点されるわけではなく、事実確認にしか使われません。積極的に社会に発信したことがグラントの審査の加点要素になるとか、職場での評価の対象になるとか、ポジティブなものとして評価される体制や基盤を整えていく必要は感じています。
“内側”から再生医療の普及に貢献していきたい
——八代先生はもともと幹細胞生物学の研究者として再生医療の基礎研究に従事された後、再生医療のコスト研究をはじめとする科学技術社会論のフィールドワーク研究に取り組まれていますよね。
私は「フィールドは持っているが、メソッドはない」という言い方をしています。それは、再生医療の”内側”の人間として、”外側”のメソッドを使って再生医療の普及に貢献する人がいてもよいのではないかという考えからです。
世の中に、イノベーションや政策の研究はたくさんありますが、対象を我が事として取り組む人は、あまりいないと思っています。私は自身の経験を活かして現場の課題を取り入れながら、より社会に実装しやすい形で研究を進めていこうと考えていますので、現場の幹細胞研究の団体や細胞生物学とは今後もずっと関わっていくつもりです。専門は「幹細胞生物学」です、と言い続けているのは、いまでも幹細胞を研究するマインドでいるからです。
——科学技術社会論に関心を持たれたきっかけはどういったところにあったのでしょうか。
もともと、科学技術社会論をやろうと思ってやりはじめたわけではないんです。私は大学院生時代に当時のボスだった中内啓光先生と『再生医療のしくみ』(日本実業出版社、2006年)という書籍を出しているのですが、そのゲラが出るか出ないかくらいの時期にマウスiPS細胞作成の成功が発表され、iPS細胞に関する内容を付け足したことを覚えています。当時は今のように再生医療の例としてiPS細胞がまっ先に挙げられるような状況ではなく、再生医療といえばES細胞やクローンというイメージのほうが強い時期でした。
その後、再生医療が重点的に研究費を分配される領域になるにつれ、科学者のアカウンタビリティの話題が盛り上がりはじめます。科学技術予算の削減が判断された2009年の事業仕分け、2011年の東日本大震災などもあり、科学と社会の関係を嫌でも考えなければならない時期が長くあったわけです。こうした状況のなかで、再生医療研究や幹細胞生物学の中にいる人間として科学者のアカウンタビリティを考えていこうとさまざまなことを調べていくうちに、結果として科学技術社会論に行き着いたという形です。
そういう背景もあって、私はキメラ動物に関する意識調査や社会のコミュニケーション障壁に関する論文などは、生物学や再生医療関連の論文誌に投稿しています。それは、科学技術社会論や社会学ではないという批判もあるかもしれません。しかし、私は現場の研究者の目に触れる可能性がある場所にそうした情報を置いておくことに意義があると考えています。
——八代先生が進められているような研究に興味を持つ現場の若手研究者がどんどん出てくるとよいと感じました。最後に、現場の若手研究者に対してメッセージをお願いします。
先ほど「フィールドはあるけれど、メソッドはない」と言う言い方をしましたが、何か知りたいことがあるけどその方法がわからない場合には、自分から他の領域に飛び込んでみて、まずはその領域の人に相談してみるとよいと思います。曲がりなりにも何かスペシャリティを持っていて、それを広げていこうと思うのであれば、誰かと一度一緒にやってみることで、もともとメソッドを持っていなくとも自分でもできるようになります。「学際」は誰かがつくるものではなく、自分でつくるしかありません。学際的な研究を進めようと思うのであれば、ぜひ自分からメソッドを吸収するために他の領域に目を向けてみてください。
神奈川県立保健福祉大学・八代嘉美教授 プロフィール
神奈川県立保健福祉大学 教授
東京女子医科大学医科学研究所、慶應義塾大学医学部、京都大学iPS細胞研究所を経て現職。専門は幹細胞生物学、科学技術社会論。SciREX事業のRISTEXプロジェクト「コストの観点からみた再生医療普及のための 学際的リサーチ」など、実際の幹細胞研究を行ってきた知識・経験をもとに、再生医療・幹細胞研究に関する医療経済や政策動向、社会とのコミュニケーションの研究を行う。著書に『増補iPS細胞 世紀の発見が医療を変える』(平凡社新書)、共著に『再生医療のしくみ』(日本実業出版社)などがある。
[PR] 提供:政策研究大学院大学 科学技術イノベーション政策研究センター(SciREXセンター)
この記事を書いた人
- フリーランスライター/編集者。お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。修士(理学)。出版社でIT関連の書籍編集に携わった後、Webニュース媒体の編集記者として取材・執筆・編集業務に従事。2017年に独立。現在は、テクノロジー、ビジネス分野を中心に取材・執筆活動を行う。アカデミストでは、academist/academist Journalの運営や広報業務等をサポート。学生時代の専門は、計算化学、量子化学。 https://www.suto-hitomi.com/