「脂肪」と聞くと、なんとなく身体に悪い印象を持つ人も多いのではないだろうか。しかし脂肪には、貯蔵系や燃焼系などいくつかの種類があり、その全貌は未だに明らかにされていない。シンガポールA*STARバイオ工学ナノテクノロジー研究所の杉井重紀グループリーダーは、特に脂肪細胞の幹細胞に注目して脂肪の理解を深めるとともに、自身の研究成果を社会に実装するべく、スタートアップ企業 CELLIGENICSの創業にも携わってきた。杉井グループリーダーの研究内容からシンガポール特有の研究環境まで、詳しくお話を伺った。

脂肪幹細胞にもさまざまな「型」がある

——杉井先生は「脂肪」に関する研究をされているとのことですが、まずはじめに、脂肪について詳しく教えていただけますでしょうか。

脂肪組織を構成する脂肪細胞には、大きく分けて白色脂肪細胞と褐色脂肪細胞の2つがあります。さらに白色脂肪は、太ももやお尻などのように身体の皮膚の下についている「皮下脂肪」と、内臓の周りについている「内臓脂肪」の2種類に分けられています。

——皮下脂肪や内臓脂肪という言葉は、日常生活でも馴染みがありますね。

皮下脂肪は、私たちの身体を保護してくれている脂肪です。恰幅の良い白人の方を思い浮かべていただきたいのですが、彼らは意外とメタボ(メタボリックシンドローム:代謝症候群)にはなりにくいんですよね。なぜかというと、彼らはたくさんの脂肪を蓄えてはいるものの、全体の脂肪量に対して皮下脂肪の割合が大きいからです。一方で、日本人を含めたアジア人は内臓脂肪の割合が大きく、比較的メタボになりやすいと考えられています。「脂肪」という言葉は良い印象を持たれていませんが、その理由の多くは内臓脂肪のせいなんです。

——なるほど。両者の違いはどのような点にあるのでしょうか。

そもそも白色脂肪には、体内の余分なカロリーを溜め込む「貯蔵」の役割があります。皮下脂肪では、たとえば断食などでカロリーが不足したときには、それまでに溜め込まれていた脂肪を血中に流して、カロリーを供給することができます。しかし内臓脂肪では、そのコントロールが上手くいきません。また、内臓脂肪自体が炎症を起こしてしまうことがあるなど、内臓脂肪にはいくつかの問題があります。

——その原因は判明しているのでしょうか。

まだ明らかにされていません。私は、皮下脂肪と内臓脂肪の違いのヒントが「脂肪由来の幹細胞」に隠されているのではないかと考え、2011年に研究を開始しました。人から取った2種類の脂肪組織から、脂肪細胞の大元となる幹細胞を分離し、それらの違いを調べるということをはじめました。

——脂肪の幹細胞は皮下脂肪や内臓脂肪に分化する前の細胞なので、両者に違いはないように思うのですが……。

実は、そうではありませんでした。驚いたことに、培養実験をすると皮下脂肪由来の幹細胞からは特に問題なく脂肪細胞ができるのですが、内臓脂肪由来の幹細胞からはちゃんとした脂肪細胞ができなかったんです。たまたま脂肪細胞ができたとしても、本当に脂肪細胞と呼んでいいのかというくらい、質の悪いものができてしまうんです。それ以外にも、両者の幹細胞には違いが多すぎて、はじめはどこの違いに注目すべきかも悩みどころでした。

——両者の幹細胞の違いを理解することが、脂肪に対する理解につながるということですね。冒頭で、脂肪は白色脂肪と褐色脂肪の2つに分けられるというお話がありましたが、褐色脂肪について教えていただけますか。

褐色脂肪は白色脂肪と異なり、その脂肪細胞にはたくさんのミトコンドリアが含まれています。ミトコンドリアの作る褐色のため、褐色脂肪と呼ばれているんです。もちろん名前だけではなく、両者の特徴も大きく異なります。ミトコンドリアでは通常ATPを作っているのですが、褐色脂肪細胞内のミトコンドリアには特異的なタンパク質があり、ATPの代わりに熱を作ります。褐色脂肪細胞は、脂肪を分解して熱を作り出す「燃焼」の役割を持つ脂肪細胞というわけです。白色脂肪細胞が「貯蔵系」なのに対して、褐色脂肪細胞は「燃焼系」ということになります。

——褐色脂肪細胞は私たちの身体にどれくらい含まれているのでしょうか。

赤ちゃんはたくさんの褐色脂肪を持っています。大人になるにしたがって褐色脂肪細胞はなくなっていくものと考えられていたのですが、2009年に大人も褐色脂肪細胞のようなものを持っていることがわかりました。さらに2014年には、白色脂肪が褐色化できるという論文が発表されました。皮下脂肪に刺激を与えると、褐色化を誘導できるというものです。

——皮下脂肪を褐色脂肪にできたら、かなり注目を浴びそうですね。どれくらいの白色脂肪を褐色化できそうかということは、予想できるのでしょうか。

現段階で明確に答えることは難しいのですが、肥満状態が長く続くと褐色化が起こりにくくなったり、年齢と共に褐色化の能力が落ちたりするということは、最近の研究から明らかにされてきています。このあたりのトピックも、脂肪由来の幹細胞を使った研究でも説明できることがわかってきたので、ひきつづき研究を進めていきたいです。

研究の成果を社会で活用しやすいエコシステム

——杉井先生はCELLIGENICSの共同創業者として研究開発型スタートアップ企業の立ち上げにも関わられていますね。どのような経緯で創業に至ったのでしょうか。

これは偶然だったのですが、脂肪幹細胞研究の実験においては、幹細胞を含む細胞を分離する作業があります。その際、通常は「コラゲナーゼ」というタンパク質分解酵素を利用します。コラゲナーゼは幹細胞を効率よく分離することができるのですが、コラゲナーゼ自体が細菌由来の酵素ですので、臨床に使うには少し不安があります。そんななか、たまたま機械的な手法で幹細胞を分離する技術を発見したんです。それならコラゲナーゼを使わない方法のほうが望ましいということで、この方法で特許を取得して、その技術を確立・普及させるためのスタートアップを立ち上げました。

——創業にあたり国からのサポートはあるのでしょうか。

シンガポールは国家方針として、経済貢献のために研究に投資するという明確な特徴があります。私が今所属しているA*STARもMinistry of Trade and Industry(貿易産業省)の管轄の政府系研究機関です。政府系の研究機関ではありますが、A*STARは自身を「コーポレート」と、研究所のミッションを「コーポレートミッション」と呼んでいます。国自体を大きな企業体と見てもいいかもしれません。

そのような背景もあり、研究から世の中の役に立ちそうなものができたときに、事業に結びつくようなサポート体制が充実しています。私たちの場合も、A*STARの強力な事業化部門のサポートを得て、特許技術の事業化支援のグラントを獲得しました。CELLIGENICSを立ち上げた際にも、政府の中小企業支援機関から研究開発に関するグラントを得て、研究開発を進めていました。

——スタートアップをはじめるには恵まれた環境のように思います。杉井先生のCELLIGENICSと研究の業務の割合はどれくらいなのでしょうか。

現在は、アカデミアの研究が95%くらいです。CELLIGENICSでは、研究開発面に関するアドバイザーとして仕事をしています。ですのでポジションは持たず、実際に会社を動かしているのは、CEOをはじめ研究開発や専門職のメンバー、ビジネスパートナーの方々です。ちなみにCEOとは知り合い経由で出会いました。A*STARは産学官からさまざまなバックグラウンドの人たちが集まっているため、研究者ネットワークはもちろん、企業人とのつながりも持ちやすい面があるかもしれません。

——研究と経営のバランスに悩まれている大学発スタートアップの研究者も多いと思うのですが、この辺りについて杉井先生はどのようにお考えですか。

駆け出しのステージでは、特にバイオ系の研究は基礎体力をつけるトレーニングに時間がかかりますので、研究だけに集中したほうが良いのかもしれません。ただ、ある程度先のステージに到達して研究主宰者になると、ラボでひたすら実験するだけでは成り立たなくなります。研究テーマによると思うのですが、自分ひとりだけで完結する研究って少なくなってきていると思うんですよね。

——なるほど。

これからの時代、新しい物事を発見するには、自分とはまったく違うスキルを持つ人たちと組んだり、違う分野と組み合わせて研究をデザインすることが重要になると思います。特にバイオ系の分野は、数年経つと既存のテクニックが廃れることも結構あるので、違う分野に対する理解力やコミュニケーション力は欠かせません。そのほかにも、チームマネジメントや資金獲得などの仕事も出てきますので、ステージによって考えかたを切り替える柔軟な姿勢が重要になると思います。スタートアップ立ち上げもこの延長線上で、異分野への理解や多様な人材とうまく仕事をしていくという意味では、同じことだと思います。

——多様なスキルが問われてくるのですね。シンガポールには、日本のように基礎研究のための資金を幅広く提供する制度がないなかで、杉井先生はシンガポールの制度を上手く活用し、ご自身の研究の実現に向けて進んでいるように思えます。

大学院時代に日本人のいない異文化の環境にいたことが、功を奏したのかもしれません。当時、ちょうどインターネットが普及してきたころで、大学院に留学している人たちを対象にしたメーリングリストをはじめました。たまに開催されるオフ会でいろいろ話していると、科学の研究にも実に多様な分野があっておもしろいなと思い、カガクシャ・ネットという活動を立ち上げました。この活動を通じて、視野を常に広く持つことや、自分の研究を他の人にわかるように話すことの重要性、研究者どうしのネットワークの必要性を感じるようになりました。

——最後に今後のビジョンを教えてください。

脂肪の幹細胞の基礎研究を発展させていき、これまで治らなかった病気を治したいというのが最終的な目標です。これまでは基礎研究寄りの仕事が中心だったのですが、今後は私たちの研究成果を臨床に役立てていく段階に入っていきたいと考えます。臨床医を含めいろいろな専門家のご協力をいただけるように、研究者としてのコミュニケーション力を習得し、夢の実現に向けて進んでいきたいと思います。

(執筆・撮影:道林千晶、取材・編集:柴藤亮介)

A*STARシンガポール・バイオ工学ナノテクノロジー研究所 杉井重紀グループリーダー プロフィール
A*STAR(シンガポール科学技術研究庁)傘下のバイオ工学ナノテクノロジー研究所でチームリーダー。脂肪由来の幹細胞と代謝についての研究を行う。Duke-NUS医科大学院のAssistant Professorを兼任。1996年京都大学農芸化学科卒業後、カリフォルニア大バークレー校聴講生を経て、米国ダートマス大学で博士号取得。その後、サンディエゴのソーク研究所・Ronald Evans教授のもとで博士後研究員。2011年シンガポールに移りバイオイメージング研究所グループリーダーを経て、現職。カガクシャ・ネット創立者(2000-2010年代表、2011年以降アドバイザー)、柿内賢信記念賞(科学技術社会論学会)、日米リーダーシッププログラム・スコットジョンソンフェロー、シンガポール幹細胞学会執行委員、台北医科大学細胞再生医療センター顧問、細胞医療フォーカスグループ委員、2014年シンガポールでセリジェニクス社を共同創業。