前編の記事では、ジェイムズ・ジョイスの作品内に描かれたプレシオサウルスのモデルと想定できる化石を追いました。後編ではその古生物が表現として描き出される意味を19世紀の古生物表象の系譜から考察してみます。最初に一つ断っておくと、プレシオサウルスは大型海棲爬虫類であり、「恐竜」(dinosaur)ではありません。ただ、当時の古生物を描き出す言説のなかでは頻繁に、中生代に棲息していた非鳥類型恐竜や海棲爬虫類、翼竜はまとめて――19世紀中頃に新しく造られた「先史時代の」という形容詞を伴って――“prehistoric monsters”という用語で捉えられていました。現在のポピュラーカルチャーでも、それらの古生物はいっしょくたにイメージされていますが、この記事ではその「絡げ」をむしろ利用して、フィクションや創造的な表現のなかに描かれる古生物を総称して、〈恐竜〉と表記します。

あらためてジョイスの小説の文章を引用すれば、プレシオサウルスは以下のように描かれていました。原文では“as one might have a vision of the plesiosauros[sic] emerging from his ocean of slime”とある箇所と、“emergent art”に注目します。

彼[スティーヴン]は青年にありがちなうわべだけの精神で芸術に関わったわけではなく、森羅万象の有意義な核心部へと突入を試みたのだった。彼は人類の過去へと遡り、プレシオサウルスが汚泥の海から姿を現わす(emerging)のを見るかのように、まさに生まれ出んとする芸術(emergent art)を垣間見た。(Stephen Hero 33)

“emergent”という動態が非常に気になるところです。それというのも、19世紀後半から20世紀初頭の〈恐竜〉を登場させる物語群の特徴には、〈恐竜〉がフィクションの空間内に出現する瞬間への関心、彼らがまさしくテクストの表面に文字となって現われ出る瞬間への関心があるからです。一例として、1852年から連載が開始されたチャールズ・ディケンズ(Charles Dickens)の『荒涼館』(Bleak House)の冒頭に出てくる獣脚類メガロサウルス(Megalosaurus)の描写を見てみます。ジョイスの蔵書目録にも見つかるとても有名な小説で(Ellmann 106)、英語圏の小説で最も早く恐竜に言及した例として頻繁に取り上げられます。重要なことに、英文学史上において記念すべき〈恐竜〉は単に現われ出るだけの存在なのです。

倫敦。ミクルマス開廷期もようやく終わり、大法官はリンカーン法曹院の大法官裁判所にいる。十一月の容赦のない天候。街の通りは、洪水がつい今しがた地球の表面から退いたかのように泥に覆われており、仮に体長四十フィートほどもあるメガロサウルスが、とてつもなく巨大なトカゲ(elephantine lizard)のようにしてそのホウボーン・ヒルをのしのしと登ってくるのに出会っても不思議(wonder)ではあるまい。(ディケンズ『荒涼館』)

『荒涼館』においてメガロサウルスの出番はこれだけで、そのあとにふたたび言及されるわけではありません。また実際にその現場に現われ出るのではなく、単に想像された「ヴィジョン」のなかに現われ出るだけです。ジョイスのプレシオサウルスも同様に「生まれ出んとする芸術」(emergent art)の比喩として、ヴィジョンのなかの汚泥の海から「現われ出て」(emerging)きます。両者とも死んで乾いた化石ではなく、生きて濡れた身体を与えられ、形定まらぬ泥のなかから出てくるのです。すなわち、ディケンズのメガロサウルスとジョイスのプレシオサウルスの描写からは、巨大な古生物の身体が「出て来る」こと自体に、その驚異的な身体の全容を表わす途中に、大きな関心と意味が付与されていることがわかります。

〈恐竜〉が現われ出ることを描き出す。この問題は、フィクションにおける〈恐竜〉の生息地と合わせて検討する必要があります。〈恐竜〉を主要な関心事項として登場させる初期の物語では、地球空洞説や生き残り説をもとにしながら、inaccesibleやforbidding と形容される洞窟や湖の底、人里離れた未開の地など、文明社会や人知とは懸隔のある場所から、すなわち登場人物にとって常に想定外の空間から絶滅したはずの古生物が現れ出てきます。その設定自体は初期〈恐竜〉文学の特徴と言ってもいいかもしれません。それというのも、タイムマシン技術によって中生代の時空への移動が可能になり、遺伝子編集技術によって専用の恐竜パークが用意されると、〈恐竜〉が棲息していることはもはや想定済みとなり、未知の身体がぬっと現われる「よもやの空間」は雲散霧消していくことになるからです。初期〈恐竜〉は頻繁に、爬虫類のイメージをまとい、その身体が濡れていたり、湿っていたり(あるいは臭かったり)することが強調されますが、それは彼らが棲む空間が、文明の手が及んでいない、濡れた未踏の、封じられていた地というフィクション中の舞台設定と関連しています。

〈恐竜〉表象の研究で『荒涼館』の次によく引き合いに出される作品が――厳密な意味での恐竜は登場しませんが――ジュール・ヴェルヌ(Jules Verne)の『地底旅行』(1864年)です。『地底旅行』に対して指摘されるさまざまな影響源の一つには、直前の1863年に出版されたルイ・フィギュエ(Louis Figuier)の『大洪水以前の地球』があります。同書には画家エドゥアール・リウー(Édouard Riou)が寄せた、イクチオサウルスとプレシオサウルスが相まみえる場面を描いた挿絵があり、『地底旅行』の(同画家によって最初に挿絵が加えられた)1867年版にも、筏を後景にしながら、前景部でやはりその両怪物が互いの首を噛むイメージが提供されています。

大海原で相まみえるイクチオサウルス[左]とプレシオサウルス[右]の構図(Édouard Riou,“Ideal landscape of the Liasic Period.”Figuier, 1866, Plate XV)

イクチオサウルスに対してプレシオサウルスを比較する分析や構図自体はすでに命名の時点である1820年代から存在していますが、『地底旅行』中の両怪物の対決は、空想科学小説に分類されうる文学作品で先史時代の動物の戦闘を描いた最初の例とされます。この対決構図に関して、アラン・デビュース(Allan Debus)が、19世紀の古生物表象を蒐集したマーティン・J.S. ラドウィック(Martin J. S. Rudwick)の『太古の光景―先史世界の初期絵画表現』の研究成果を借りながら述べた指摘は、ジョイスのプレシオサウルス表象を考える上でも重要なものとなるでしょう――「ちょうど【著名な古生物画家】チャールズ・ナイト(Charles Knight)が1906年の画期的な復元図に描いたティラノサウルスとトリケラトプスの対決構図のように、1860年代までにはプレシオサウルスと戦うイクチオサウルスの描写はすでに視覚的なクリシェになっていたようである」(30; リンクによる補足は筆者)

私たちはここまで、1860年代にはプレシオサウルスの視覚像が絵画的表象の世界で浸透していたこと、1870年代にはダブリンの自然史博物館で、1890年代には同館の「化石ホール」でその化石を閲覧できたことを確認してきました。すると今や、20世紀初頭に描かれた「汚泥の海からプレシオサウルスが姿を現わすのを見るように」という一文は、決して気まぐれな表現ではなく、先行する〈恐竜〉表象の系譜のなかにありつつ、当時のジョイスを取り囲む「現在」を反映した重厚な歴史の鱗をまとった一行だと見えてきます。ジョイス研究の枠内では引き続き、「プレシオサウルス」が主人公の生のあり方や芸術観とどのように関連しているかを検証し、さらにはジョイスの古生物への関心を考察する必要があるでしょう(『ユリシーズ』ではマンモスやマストドン、ディプロドクスやイクチオサウルスへの言及があります)。

文学のなかの〈恐竜〉については、図説・絵画・映画におけるヴィジュアルな表象と、小説や詩作品、また地質学テクストに登場するヴァーバルな表象、特別創造説や地球空洞説、未確認動物学(cryptozoology)との関連、崇高の美学と巨大なものへの関心、米国における化石戦争、博物館と展示文化、西欧植民地主義における知と地のフロンティア、19世紀以降の洞窟探査熱と洞窟学(speleology)の誕生、近代兵器による〈恐竜〉の殺戮、退化論言説と〈恐竜〉の身体、当時の/最新の地質学的・古生物学的観点からの乖離…等々、多元的な観点からの研究が可能ですが、狭義の「文学」以外の研究分野と多くつながることができるでしょう。

この研究は、もう一方では、「文学のなかのプレシオサウルス」という個別の枠をつくって探求を続けていくこともできます。今現在抱かれているプレシオサウルス像とはまったく異なるイメージがかつて存在していたからです。例えば『スティーヴン・ヒアロー』の執筆がはじまる直前の1903年には、エドウィン・J・ウェブスターという作家によって書かれた「プレシオサウルスの討伐」という、現代からすれば些か奇妙な短篇があります。やはり地球空洞説と生き残り説を利用しながら、中央アフリカ奥地を踏破する植民地探検隊の一行が遭遇した「湖の悪魔」たるプレシオサウルスを、人間の狡知とダイナマイトの力で殺戮するプロットをもつ物語ですが、ウェブスターはその悪魔的古生物に対して、象を水中に引きずりこんだり、人間を巨大な顎で食い殺したりと、非常に残忍で凶悪な性格を付与しているのです。『ユリシーズ』に登場するAEことジョージ・W・ラッセル(George W. Russell)も1907年にある雑誌のなかで、プレシオサウルスを「かつて原始の汚泥に身を潜めていた獰猛な人食い動物」(“the ferocious man-devouring creatures which once wallowed in the primordial slime”)と呼んでいるのですが、こうした獰猛なプレシオサウルス像の表象の系譜はさらに探求していく余地があります。

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上記はあくまで私の方法論であり、プレシオサウルスを論じる上では、別の方法論が数多くあるでしょう。しかしいずれのアプローチにせよ、文学研究には、たった一行を、あるいはたった一語を精察するだけで、洞窟のような穴がテクストの表面に無数に現われて、それらが互いに、不意に、奇妙につながっていき、やがて広大な地下空間に遭遇するかのような、圧倒的な知的興奮を味わえる体験が存在します。決して事寄せた比喩ではなく、その洞窟には無数の記憶や歴史、文化、言説が今も誰にも発見されず眠っています。まだまだ分からないことがたくさんあるのです。だからこそ今後文学研究を志す方や、大学において文学科の選択や院進に悩んでいる方に一つだけメッセージを向けます。どうか「やり尽くされた」という言葉を信じないでください。現在は昔と違って数多くの一次資料や希少文献が利用でき、その可能性は無尽蔵です。一次資料だからといって信頼できるわけではなく、むしろ批判的に検証すべきことが増えるわけですが、これまで埋もれていたものがようやく発掘可能になったのです。瑣末にみえる事物や何でもない片言に、想像を絶するほど膨大なリアリティが、どうにもわからないことが、未知のものが、理解不能なものが、あるいは〈驚異に満ちた恐竜〉が未だ発掘されずに残っています。何より信じてほしいのは、いま文学研究がこれまでにないほど、最も面白い時代に突入しようとしているということです。

最後になりますが、私は2014年から現在まで専修大学で「英語圏文学への招待」という講義科目を担当させてもらっています。同講義では恐竜も含め、文学のなかの動物をめぐる内容を扱ってきましたが、現在の私の研究は受講者たちが授業時に示した熱意と強い関心によって一部支えられています。この記事を執筆する上で、受講者全員に感謝を申し上げたいと思います。

引用・参考文献
藤子不二雄『ドラえもん』第6巻〈てんとう虫コミックス〉小学館、1966年
Budgen, Frank. James Joyce and the Making of Ulysses, and Other Writings. Oxford: Oxford UP,1972.
Debus, Allan. Dinosaurs in Fantastic Fiction: A Thematic Survey. Jefferson: McFarland, 2006.
Dickens, Charles. Bleak House. Eds. George Ford and Sylvère Monod. New York: W. W. Norton,1977.
Figuier, Louis. The World before the Deluge. New York: D. Appleton & CO, 1866.
Ellmann, Richard. The Consciousness of Joyce. New York: Oxford UP, 1977.
O’Connor, Ralph. The Earth on Show: Fossils and the Poetics of Popular Science, 1802-1856. Chicago: U of Chicago P, 2007.
Rudwick, Martin J. S. Scenes from Deep Time: Early Pictorial Representations of the Prehistoric World. Chicago: Chicago UP, 1992.

この記事を書いた人

南谷奉良
南谷奉良
日本工業大学・共通教育系学群・英語研究室 講師(専任)。一橋大学言語社会研究科博士後期課程在籍。日本ジェイムズ・ジョイス協会事務局員。ジョイス研究および19世紀から20世紀初頭にかけての動物の表象や動物をめぐる近代的諸制度に関心がある。
ホームページ:http://www.stephens-workshop.com