ヒト脳進化研究としてのチンパンジーiPS細胞 – 「ヒトの知性」の解明を目指して、脳の形成プロセスを追う
ヒト脳進化研究とチンパンジー
ホモ・サピエンス(=賢いヒト)という名称が表すように、私たちヒトを人たらしめている最大の特徴は高度な知性にあるといえます。事実、私たちヒトの知性は、古今東西、地球上に生息するさまざまな生物とは一線を画し、高度な文明を築くに至りました。では、私たちヒトの知性は一体どのようにして生み出されたのでしょうか? これは、長年にわたる生物学上の大きな命題であると同時に、おそらく誰もが一度は考えたことのある普遍的かつ素朴な疑問でしょう。
ヒトの知性の起源を解き明かそうとするとき、進化的にヒトに最も近縁な現生動物であり、およそ99%のゲノム情報を共有しているチンパンジーは、最適な比較研究対象となります。とりわけ、脳の形成メカニズムの比較研究は極めて重要で、「どうしてチンパンジーとヒトでは違う脳が作られるのか」という問いにヒトの知性の鍵があると考えられます。
この謎を解くために、これまでにチンパンジーとヒトの脳やゲノムの比較研究が行われてきました。しかし、脳やゲノムの比較では「違いが何か」はわかりますが、「どうして違う脳になるのか」はわかりません。「違う脳が作られる」メカニズムを解き明かすためには、完成された脳(アウトプット)の比較解析ではなく、チンパンジーとヒトの脳が形成される過程で「いつ」「何が」違うのかという「プロセス」の解明が不可欠です。
そのためには、初期胚から胎生期、胎児期にかけて脳が形成されるプロセス(初期神経発生)の解析が必要ですが、チンパンジーやヒトの胚や胎児の脳神経発生を継時的に解析することは倫理的に認められず、また技術的にも不可能であり、チンパンジーとヒトの脳分化のプロセスやメカニズムは解明されていません。
チンパンジーiPS細胞の作製と神経幹細胞への分化誘導
ヒト脳進化研究の「プロセス問題」を解決するアプローチとして、私たちはチンパンジーのiPS細胞を作製し、神経幹細胞へと分化誘導する培養系を利用することにしました。iPS細胞から神経幹細胞に至る細胞分化のプロセスを詳細に解析すれば、初期神経発生に伴う段階的な遺伝子発現や細胞特性の変遷を明らかにし、細胞培養レベルでチンパンジーとヒトの初期神経発生を比較できると考えられます。
まずはチンパンジーiPS細胞の作製を行いました。日本国内のチンパンジーの情報は「大型類人猿情報ネットワーク(GAIN)」に集約されており、研究用の試料利用も可能です。そこで、京都大学霊長類研究所(西チンパンジー、39歳、メス)、同野生動物研究センター熊本サンクチュアリ(亜種間雑種、24歳、オス)、動物園(東チンパンジー、39歳、メス)の成体チンパンジー3個体について、皮膚から培養した線維芽細胞を使用しました。
ヒトのiPS細胞を作製する方法を参考に、初期化因子のセットを細胞に遺伝子導入したところ、およそ1ヶ月後にはヒトiPS細胞と類似したチンパンジーiPS細胞のコロニーが現れました。これらのチンパンジーiPS細胞はヒトiPS細胞と同じ培養条件で自己複製し、多能性幹細胞に特徴的な遺伝子発現や三胚葉への分化能力を示すことも確認されました。
次に、得られたチンパンジーiPS細胞から神経幹細胞への選択的な分化誘導を行いました。方法としては、以前にニホンザルのiPS細胞を使って開発した培養法(ダイレクト・ニューロスフェア形成)を適用し、神経系の発生を促す化合物を用いた浮遊培養を行いました。その結果、チンパンジーiPS細胞の7日間の浮遊培養によって神経幹細胞の集合塊(ニューロスフェア)が形成され、このニューロスフェアを接着培養することでニューロンやアストロサイトへと分化することが確認されました。
チンパンジーiPS細胞から誘導される段階的な初期神経発生
ダイレクト・ニューロスフェア形成の結果を踏まえ、iPS細胞からニューロスフェアができるまでの7日間の分化誘導プロセスに注目し、培養1、3、5、7日目の細胞運命の解析を行いました。
分化誘導前のiPS細胞および各培養日数の分化誘導細胞を回収し、RNAシークエンスによって網羅的に遺伝子発現を解析したところ、培養1日目から3日目にかけて「多能性関連遺伝子の発現消失」と「初期の神経発生関連遺伝子の発現」が起こり、培養5、7日目になると「放射状グリア細胞(脳の神経幹細胞)関連遺伝子の発現」が起こることがわかりました。
また、培養1、3日目の時点ではまだニューロンへの分化能力はありませんが、培養5、7日目になるとニューロン分化能が獲得されることもわかりました。以上より、培養1日目から3日目のあいだに細胞運命が多能性から神経系へと切り替わり、培養3日目から5日目のあいだにニューロン分化能を獲得することが見えてきました。
生体内の初期神経発生では、多能性をもつ後期のエピブラストから最初の神経系の細胞である神経上皮細胞が誘導され、神経板(のちの神経管)を形成します。神経管の前部から脳が形成され始めると、神経上皮細胞の形態が変わり、ニューロン分化能をもつ放射状グリア細胞へと転換します。同様に、チンパンジーiPS細胞のダイレクト・ニューロスフェア形成培養では、培養日数に応じて細胞状態が後期前部エピブラスト(1日目)、神経上皮細胞(3日目)、放射状グリア細胞(5、7日目)と段階的な初期神経発生を経過すると考えられます。
「ヒトらしさ」を司る遺伝子の特定を目指して
今回、チンパンジーiPS細胞から神経幹細胞への分化誘導プロセスを精査することで、段階的な初期神経発生の進行と遺伝子発現を明らかにすることができました。胚や胎児などの生体試料を使うことができないチンパンジーでは、iPS細胞の分化誘導系は初期神経発生を解析するツールとして極めて有用であるといえます。
また、本研究で使用した分化誘導法は、以前にニホンザルのiPS細胞から神経幹細胞を誘導するために開発した手法であり、同じ方法でニホンザル、チンパンジー、ヒトのiPS細胞の分化誘導を行うことができます。したがって、ニホンザル、チンパンジー、ヒトの分化誘導プロセスを解析するための基盤がすでに整っており、今後はこの3種間の遺伝子発現の比較によって、ヒトの初期神経発生はチンパンジーやニホンザルと「いつ」「何が」違うのかを解き明かしていく予定です。さらに、ヒトの初期神経発生に固有の遺伝子を特定し、どのような機能をもっているのかを解明したいと考えています。
こうしたアプローチは、初期神経発生の研究に限りません。今回、高度な知性を司る脳の発生に注目して研究を行いましたが、チンパンジーとヒトでは身体構造と機能にさまざまな違いがみられます。iPS細胞を特定の細胞に分化誘導する実験系を利用すれば、さまざまな細胞・組織の分化プロセスにおける種差やヒト特異性を明らかにすることができます。
iPS細胞をツールにヒト進化の謎に迫る「幹細胞人類学」が隆興することで、「ヒトがヒトである」ことを裏付けている遺伝子の探索研究が活発になると期待しています。
参考文献
・Ryunosuke Kitajima, Risako Nakai, Takuya Imamura, Tomonori Kameda, Daiki Kozuka, Hirohisa Hirai, Haruka Ito, Hiroo Imai, Masanori Imamura (2020). Modeling of early neural development in vitro by direct neurosphere formation culture of chimpanzee induced pluripotent stem cells. Stem Cell Research, 44: 101749.
・今村公紀、仲井理沙子 『チンパンジーの細胞をリプログラミング – iPS細胞製作の副産物が示す神経堤細胞様の特性』(academist journal、2020年2月20日)
・今村公紀、仲井理沙子 『ニホンザルのiPS細胞の作製に成功!-「霊長類学」の新たな可能性』(academist journal、2018年10月23日)
この記事を書いた人
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今村公紀(写真左)
京都大学ヒト行動進化研究センター 助教、博士(医学)。富山県高岡市出身。金沢大学理学部、奈良先端科学技術大学院大学、京都大学大学院医学研究科、三菱化学生命科学研究所にて学生時代を過ごした後、滋賀医科大学 特任助教、慶應義塾大学医学部 特任助教、理化学研究所 客員研究員、京都大学霊長類研究所 助教を経て、2022年より現職。
仲井理沙子(写真右)
理化学研究所バイオリソース研究センターiPS創薬基盤開発チーム 特別研究員、博士(理学)。京都府舞鶴市出身。富山大学理学部卒業。日本学術振興会特別研究員(DC2)を経て、京都大学大学院理学研究科修了。2022年より現職。
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