チンパンジーの4つの亜種:「ヒトらしさ」の研究対象は実は多様

アフリカに生息する大型類人猿のチンパンジーは、ヒトとの共通祖先からおよそ700万年前に分岐した、現在地球上に存在している生物のなかで最もヒトに近縁な動物です。そのため、社会や行動、認知能力など、ヒトらしさの進化を理解するための研究対象として注目されてきました。また、最近は生命科学におけるさまざまな技術革新に基づき、チンパンジーのゲノムや細胞を実験室で研究することが盛んになっています。なかでも顕著なのが、iPS細胞を使ったヒトらしさの発生進化研究です。たとえば、2022年にノーベル医学生理学賞を受賞したSvante Pääbo博士は、チンパンジーとヒトのiPS細胞から培養皿で小さな脳組織(脳オルガノイド)を作製し、ネアンデルタール人とホモサピエンスでDNA配列が異なる遺伝子の機能を解析しています。私たちもこれまでにチンパンジーやニホンザルのiPS細胞を作製し、ヒトと比較しながら脳神経発生やゲノムの研究に取り組んできました。このように、チンパンジーのiPS細胞は、ヒトらしさの進化を解明するための新たなツールとして脚光を集めています。

チンパンジーとヒトを培養細胞で比較して、両者は何が違い、その違いがどのように生み出されているのかを解き明かす。一見、シンプルなスキームに見えますが、話はそう単純ではありません。チンパンジーの生息域は類人猿のなかでは比較的広く、赤道付近のアフリカ西部から東部にまで分布しています。そして、チンパンジーはヒトと比べてゲノムの多様性が大きく、一口にチンパンジーといっても実はいくつかの異なる集団にわかれています(図1)

<図1>チンパンジーは地理的・生物学的特徴から4つの亜種に区分されています。

現在、チンパンジーには4つの亜種が存在し、西アフリカ群のニシチンパンジーとナイジェリア-カメルーンチンパンジー、中央/東アフリカ群のチュウオウチンパンジーとヒガシチンパンジーに区分されています。これらの亜種は生息域がわかれているだけではなく、行動様式や遺伝的にも区別されます。亜種がわかれた年代も古く、ホモサピエンスとネアンデルタール人の祖先が分岐したのが60-50万年前、ホモサピエンスの誕生が30-20万年前なのに対し、ニシチンパンジーが他の亜種から分岐したのは100-50万年前と推定されています。ヒトにもさまざまな民族があり多様だと思われるかもしれませんが、ゲノムレベルでは(他の動物と比べて)互いに非常に似通っており、亜種も存在しません。したがって、ヒトはすべからくヒトですが、チンパンジーは「どの亜種を見るか」によって特徴が違う場合があり、「チンパンジー全体に共通する特徴」と「特定の亜種に限定した特徴」を判別する必要があります。そのため、iPS細胞を使ってチンパンジーとヒトを比較する際も、どの亜種のチンパンジーの細胞なのかを把握したうえで、なるべく多くの亜種や個体に由来する細胞を研究することが重要です。

 

生命科学者とチンパンジーのiPS細胞

チンパンジーに亜種の違いがあることは、生態や行動の研究者はもちろんのこと、ゲノムの多様性を調べる研究者も当然注意しています。一方、普段iPS細胞などの培養細胞を駆使した研究に取り組んでいるのは生命科学者です。生命科学者は高度な細胞培養や解析技術に熟達し、体内で起こるさまざまな生命現象の研究を得意としていますが、研究対象となる「いきものそのもの」については残念ながらあまり詳しくない傾向にあります。事実、これまでに発表されたチンパンジーiPS細胞の論文のほとんどで亜種情報は記されておらず、ただ単に「チンパンジー」とだけ記載されていることが多いです。こうした「生命科学者は亜種の存在にあまり注目(理解)していない」と事情に加え、ヨーロッパでは動物園のチンパンジーの75%以上がニシチンパンジーであるという報告もあり、亜種の多様性を反映したチンパンジーの細胞試料を得る機会が少ないという状況も拍車をかけています。

一方、私たちは以前の研究で、亜種背景の異なる3個体のチンパンジー(ニシチンパンジー1個体、ヒガシチンパンジー1個体、ニシチンパンジー/チュウオウチンパンジー/ヒガシチンパンジーの亜種間雑種1個体)の皮膚の細胞から5株のiPS細胞を作製し、研究に利用してきました。そこで、今回新たに別の2個体のチンパンジー(ニシチンパンジー)と、前回と同じ1個体(ニシチンパンジー/チュウオウチンパンジー/ヒガシチンパンジーの亜種間雑種)の皮膚と血液の細胞からiPS細胞を作製することにしました(図2)

<図2>私たちが作製したチンパンジーのiPS細胞。

また、前回はプラスミドDNAというベクター(遺伝子の運び手)を利用して細胞を初期化する遺伝子を導入しましたが、今回はiPS細胞の作製効率が高いセンダイウイルスというベクターを使うことにしました。その結果、多数のチンパンジーのiPS細胞が得られ、それらのなかから5株について遺伝子発現や染色体、三胚葉分化能の解析と神経特異的な分化誘導を行いました。そして、いずれもiPS細胞としての特性を示すことを確認しました。

 

ヒトだけに存在するノンコーディングRNA遺伝子:HSTR1

さて、せっかく新しいチンパンジーiPS細胞を作製しましたので、ヒトiPS細胞との遺伝子発現の比較も行ってみました。解析には共同研究者(信州大学・鈴木俊介 准教授)が発見した、ヒトだけがもつHSTR1という遺伝子に注目しました(図3)

<図3>HSTR1はヒト特異的なゲノムの進化によって誕生した遺伝子で、ヒトでは発現しますがチンパンジーでは発現しません。

HSTR1と似た配列はチンパンジーのゲノムにも存在していますが、ヒトでのみ急速にDNA配列に変異が入ることで遺伝子化した、タンパク質を作らない(=コードしない)ノンコーディングRNAです。このHSTR1について、ヒトiPS細胞4株と今回作製したチンパンジーiPS細胞5株、そして以前に作製したチンパンジーiPS細胞1株で発現の有無を調べたところ、ヒトではすべてのiPS細胞で発現が認められるのに対し、チンパンジーでは亜種の違いに関わらずどのiPS細胞でも発現していませんでした。さらに、ヒトではiPS細胞から神経幹細胞へと分化誘導すると、HSTR1の発現が上昇することもわかりました。HSTR1はヒトの胎児の脳組織でも発現が認められることから、ヒトに特徴的な脳神経発生や脳機能に関わっている可能性が考えられます。今のところHSTR1が具体的にヒトでどのような機能を果たしているのかはわかっておりませんが、一般的にノンコーディングRNAは別の遺伝子の発現の調節役であることが多く、ヒトの神経細胞の遺伝子発現ネットワークを制御していると予想されます。HSTR1の機能の解明に向け、iPS細胞を活用した今後の研究が待たれます。

 

チンパンジーの多様性をiPS細胞に反映させるために

実験動物のマウスなどは近交系をよばれ、遺伝的にほぼ均一で個体差がほとんどありません。しかし、チンパンジーはゲノムの多様性は大きく、亜種という集団レベルでの違いもあります。チンパンジーをヒトと比較するためには、チンパンジー全体に共通する特徴と亜種・個体によって違う特徴を識別する必要があり、なるべく多様な亜種・個体のチンパンジーiPS細胞を用意することが求められます。また、iPS細胞は株によってもクセに違いが出ることがありますので、そういう意味でもiPS細胞のバリエーションを増やすことは重要です。国内のチンパンジーの個体情報を管理している「大型類人猿情報ネットワーク」によると、2024年3月現在で45施設に290個体のチンパンジーが飼養されています。ところが、他の動物園動物と同じく、チンパンジーも年々個体数が減少の方向にあります。そのため、遺伝的多様性を反映したiPS細胞バンクを作ることは、将来の繁殖や人類進化研究にとっても重要な基盤となります。すでにiPS細胞が作られている動物でiPS細胞の種類を増やしていくという試みは、時間・労力・コストが掛かる割に新規性がなく、研究成果という点で非常にコスパが悪い作業といえます。しかし、地味ではあっても誰かが裏方として地道に取り組む必要があり、こうした試みを続けられる余力が日本の研究現場に残されていることを切に願ってやみません。

 

参考文献

  • Masanori Imamura, Risako Nakai, Mari Ohnuki, Yusuke Hamazaki, Hideyuki Tanabe, Momoka Sato, Yu Harishima, Musashi Horikawa, Mao Watanabe, Hiroki Oota, Masato Nakagawa, Shunsuke Suzuki, Wolfgang Enard (2024). Generation of chimpanzee induced pluripotent stem cell lines for cross-species comparisons. In Vitro Cellular & Developmental Biology Animal, 2024 Feb 22. doi: 10.1007/s11626-024-00853-y.
  • 今村公紀、仲井理沙子 「ニホンザルiPS細胞の神経発生から見えてきた、チンパンジーやヒトとの時間的な違い」(academist journal、2023年1月31日)
  • 今村公紀、仲井理沙子 「ヒト脳進化研究としてのチンパンジーiPS細胞 – 「ヒトの知性」の解明を目指して、脳の形成プロセスを追う」(academist journal、2020年4月22日).

この記事を書いた人

今村公紀, 濱嵜裕介
今村公紀, 濱嵜裕介
今村公紀:京都大学ヒト行動進化研究センター 助教、博士(医学)。富山県高岡市出身。金沢大学理学部、奈良先端科学技術大学院大学、京都大学大学院医学研究科、三菱化学生命科学研究所にて学生時代を過ごした後、滋賀医科大学 特任助教、慶應義塾大学医学部 特任助教、理化学研究所 客員研究員、京都大学霊長類研究所 助教を経て現職。2024年度より金沢大学医学部 准教授。
濱嵜裕介:京都大学大学院理学研究科 博士課程、日本学術振興会特別研究員(DC2)。東京都出身。東京大学理学部を卒業後、京都大学大学院理学研究科修士課程を修了。