ゆりかごから墓場まで – 生物考古学が明らかにする江戸時代のあるおばあさんの一生
生物考古学の発展
縄文時代や江戸時代など、過去の人びとの暮らしや生死を明らかにする研究分野というと、多くの方々は考古学や歴史学を思い浮かべるのではないでしょうか。そうした分野に加えて、生物考古学 (bioarchaeology)という研究分野があります。遺跡から出土した人骨や動物骨の形態を調べたり、DNAを分析したり、化学分析を実施したりなど、生物学や地球化学の手法を主に利用して、当時の人びとの生死、食性、健康状態、集団構造など、考古学や歴史学上の研究課題に答えようとする分野です。
生物考古学の特徴のひとつは、そのアプローチの多様さです。ほかの分野の最先端の分析手法によって得られた知見を、考古学や文献史学の情報と組み合わせることで、従来の研究よりずっと鮮やかに、多方面から、過去の人びとの生き様を復元できるようになります。
今回、私たちは、同位体分析という手法を適用することにより、江戸時代のあるひとりのおばあさんの一生を詳細に調べました。従来の生物考古学では、人類集団全体をまるっと対象にした研究が主でしたが、分析技術の発展により、ひとりの一生を詳細に復元する研究も可能になってきています。
明石藩家老のおばあさんST61
今回、私たちが対象としたのは、明石藩の家老のおばあさんであったST61という個体です(本名も明らかになっていますが、倫理的な配慮から、本稿では、発掘調査時につけられた「ST61」というIDを使用しています)。兵庫県明石市にある雲晴寺の境内に埋葬されており、一緒に出土した板牌の情報から、1732年に77歳で亡くなった女性であることがわかりました。文献の調査により、ST61は、明石藩の家老職を務めていた織田左衛門平常壽の祖母であり、越前大野に生まれ、23歳までには結婚し、すくなくとも3人の子をもうけたことがわかりました。棺桶のなかにはお米の籾殻が大量に入っており、人骨に加えて、この籾殻も今回の分析の対象としました。なお、子孫の方のご高配によって今回の研究の機会をいただき、研究後にST61の本人骨は改葬されました。
人骨の形態についてはすでに研究結果が報告されており、関節炎などの症状があちこちの骨に見られたものの、歯は丈夫で、骨から推定した年齢や性別の結果は「高齢の女性」という歴史学的な情報と一致していました。
今回私たちは、ST61の肋骨、歯、棺桶内の籾殻に対して、さまざまな同位体分析を適用することで、以下の点を明らかにしようと試みました。
- 幼少期の食性(特に離乳年齢)
- 老年期の食性(特に海産物の摂取割合)
- 当時の農作物の施肥について
- 埋葬後に撹乱があったかどうか
さまざまな同位体分析
同位体分析は、生物の暮らした環境や食性を復元するのに用いられる手法です。自然界には、質量数の異なる元素(同位体)が存在しますが、それがある物質にどれだけ存在するかが同位体比という指標で表されます。生物の体は食物などから摂取した元素で構成されますので、食資源ごとに同位体比が異なっていた場合、体組織と食資源の同位体比を比較することで、それぞれの食資源の摂取割合を推定できます。
たとえば、炭素の同位体からは全体的な食物の構成、窒素は母乳の摂取割合、硫黄は海産物の摂取割合などと、注目する元素によって得られる情報に違いがあります。また、どの体組織を分析するかによっても結果が異なり、子供のときに形成される歯では出生から幼少期までの情報、大人になってからも置換しつづける骨では死亡前10年間程度の情報がわかります。また、植物についても同じことが言えて、栄養塩をどのような資源から得ているかで、植物の同位体比は変化します。
ゆりかごから墓場まで
分析の結果、以下のことがわかりました。
図に示されているように、ST61の離乳は急速に進み、1歳–1歳半くらいまでには、母乳の寄与はほとんどなくなっていました。江戸時代の育児書などには、離乳の終わりは3歳くらいと記述されており、生物考古学的な手法で復元された江戸の町人の離乳の終わりも3歳くらいでした。そうした結果と比べると、ST61の離乳の終わりは早めです。こうした違いが、高い社会的地位のためなのか、母親や乳母の死亡などのような個人的な理由のためなのかは、将来的な研究が必要です。
また、離乳後の幼少期の同位体比と、老年期の同位体比のあいだに、大きな違いが見られました。古文書の調査によって、ST61は27歳で越前(現在の福井県のあたり)から明石に住居を移したことがわかっています。住居の移動にともなって食性が変化したことで、幼少期と老年期で、同位体比に違いが現れたと考えられます。
ST61の老年期の食性について、同位体の結果から計算したところ、海産物のタンパク質寄与割合は約17%と意外に低い値でした。江戸時代の食性は、社会階層によらず、米や野菜がメインで、たまに魚が加わる程度であることが、当時の文献から明らかになっています。そうした知見も参考にすると、海に面した明石という街の家老という家柄であるにもかかわらず海産物の寄与が意外に少なかったという結果にも、うなずけるものがあるかもしれません。
籾殻の同位体比は、海産物の範囲に非常に近い値を示しました。このことは、当時の水田で、海産物由来の肥料が使われていた可能性を示唆します(ただし、考古遺物は、土の中に埋まっているあいだに外部由来の元素によって汚染されてしまうことがあります。特に植物の同位体比については、汚れの有無を検出する基準が確立されていないため、今回の結果は、そうした汚れに影響されている可能性もあります)。実際、江戸時代の農書には、干鰯などの魚を利用した肥料の利用が記されています。
籾殻の年代を測定した結果、ST61人骨の死亡年1732年より80–120年ほど古いものでした。お墓は、埋められた後も二次埋葬などで撹乱を受ける可能性がありますが、籾殻は当時のものがそのまま残ったと考えられます。また、江戸時代の農書には、籾殻はなにかと役に立つので大事にとっておくべしといった記述もあり、大事にとっておかれた古い籾殻が、ST61の埋葬の際に用いられたのかもしれません。
まとめ
生物考古学は、遺跡に残らない生き様の痕跡を、骨や遺物から読み解く研究分野です。今回の研究では、自然科学の手法として発展した同位体分析、骨の形を調べる形質人類学、古文書や遺跡を読み解く文献史学や考古学など、さまざまな分野の手法や視点を利用することで、江戸時代に暮らしたひとりの人間の生涯を詳しく調べることができました。現代に暮らす私たちが当たり前のものとしている生活が、過去にはどうだったのか、推論でなく実証的に調べていくことで、現代にあって常識と考えられているような価値観や規範に新たな側面から光を当てることができるかもしれないと考えています。
参考文献
- 長岡朋人, 安部みき子, 蔦谷匠, 川久保善智, 坂上和弘, 森田航, 米田穣, 宅間仁美, 八尋亮介, 平田和明, 稲原昭嘉. 2013. 明石市雲晴寺近世墓地から出土した明石藩家老親族の人骨. Anthropological Science (Japanese Series) 121: 31–48. DOI: 10.1537/asj.121211.
- Tsutaya T, Nagaoka T, Sawada J, Hirata K, Yoneda M. 2014. Stable isotopic reconstructions of adult diets and infant feeding practices during urbanization of the city of Edo in 17th century Japan. American Journal of Physical Anthropology 153: 559–569. DOI: 10.1002/ajpa.22454.
- Tsutaya T, Miyamoto H, Uno H, Omori T, Gakuhari T, Inahara A, Nagaoka, T, Abe M, Yoneda M. 2016. From cradle to grave: multi-isotopic investigations on the life history of a higher-status female in the Edo period Japan. Anthropological Science 124: 185−197. DOI:10.1537/ase.161029.
この記事を書いた人
- 海洋研究開発機構・JAMSTEC Young Research Fellow。同位体分析やプロテオミクス分析を利用して自然人類学の研究をしています。特に、江戸時代や縄文時代のヒトや、現生のオランウータンやチンパンジーの授乳・離乳習慣を調べています。過去のヒトと海洋生態系の関わりにも興味があります。