シカン遺跡で行われた発掘調査の結果は? – 松本剛研究員による研究進捗報告
2015年5月にacademistのプロジェクト「南米先史社会「シカン」の発展と衰退の謎を解明したい」で目標金額を達成した松本剛研究員に、シカン遺跡での調査研究の様子についてご寄稿いただきました。クラウドファンディングで獲得した研究費で、どのような調査をされてきたのでしょうか。
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私はこれまで、南米ペルーの海岸地方を中心に考古学調査を行ってきました。現在の私の関心は、今から約1000年前に北海岸北部で栄えた先史国家シカンにあります。シカンは宗教的指導者を中心に栄えたと考えられており、社会の複雑化や階層化において宗教信仰や儀礼が果たした役割に関心がある私にとって、最適な題材でした。
クラウドファンディング挑戦に至った経緯
シカンの首都であるシカン遺跡の中心部は、「大広場」と呼ばれる大きな公共空間と、それを取り囲む神殿郡や貴族用の住居からなります。
これまでの発掘の結果、シカンは支配層であるシカン人貴族と、被支配層であるモチェ人の、少なくとも2つの異なる民族からなることがわかりました。シカンの上流貴族たちを中心とした祖先崇拝と、「シカン神」と呼ばれる神への信仰が社会統合のためのイデオロギーとして機能し、この多民族国家を支えていたようです。シカン神を模した仮面を被せることで祖先は神格化されました。首都の神殿群は貴族家系ごとに祖先を埋葬し、祀るためのもので、その周囲では追悼儀礼が盛んに行われました。個々の祖先神殿が巡礼地として機能していた可能性があります。こうしたシカン社会の多元性についての理解を深めるためには、貴族家系間の関係性を明らかにしなければなりません。主要な祖先神殿が取り囲む大広場で発掘を行うことによって、その手がかりが得られるのではないかと考えました。
このような背景のもと、さらなる発掘を行うべく、クラウドファンディングに挑戦しました。また、一般の方々にも発掘現場での楽しみを知っていただくために、高額支援者の方にはリターンギフトとして、発掘調査にご参加いただけるようにしました。有り難いことに、2015年3月11日から5月10日までの60日間で、総額153万5455円ものご支援を頂きました。当初の予定では資金獲得後すぐに調査を行う予定でしたが、十数年ぶりの大きなエルニーニョにより、普段はほとんど雨の降らない調査地で大雨が降り、遺跡に隣接する川が氾濫寸前になり、1年の延期を余儀なくされました。最終的に発掘調査は、翌年に予定されていた別の調査(ワカ・アレーナ)と合わせて、2016年7月4日から9月10日まで10週間に渡って実施されました。
発掘調査の成果
大広場内、ロロ神殿とベンタナス神殿の間に四つの発掘区を設けました。時間的な制約により、4つのうち3つしか(発掘区2~4)掘れませんでしたが、いくつかの重要な発見がありました。
まず、広場のベンタナス神殿寄りの発掘区で幅2メートル、高さも視界を遮るほどの大きな壁が見つかりました。南北に走る、日干し煉瓦製のこの大きな壁は、神殿間を区切っていただけでなく、ベンタナス神殿を取り囲んでいた可能性があります。壁の神殿側(内側)は儀礼空間として使われていたようで、低い祭壇のようなものが見つかりました。
何層も張り替えられた床はその都度綺麗に保たれ、遺物はほとんど出土しませんでした。壁に沿って床を掘り込んだ穴の中に数体のリャマの遺体が生贄として埋葬されていました。
さらにベンタナス神殿に近い発掘区では、ふいごの先に付ける羽口など、冶金活動を示唆する遺物も見つかっています。
一方、壁の外側では大規模な饗宴が行われた痕跡が見つかりました。たくさんの大きな炉と、その周りで大量の魚介類やリャマ、犬などの遺骸が土器片とともに出土しました。
興味深いことに、これらの遺物に混じって人骨(たとえば下顎)や、瓶や鍋に施された動物や人物をかたどったアップリケの首の部分だけを切り取ったものが大量に出土しました。
また、これまで墓からしか出土していない特殊な土器群やその他の遺物が供物として小さな石柱を取り囲むようにして配置されているのが見つかったため、単に飲み食いをしただけではなさそうです。
供物の中にはこれまでに見つかっていない様式の土器も含まれており、現地の研究者たちの注目を大いに集めました。今後は、出土した遺物を多角的に分析することによって、壁の外側のこのエリアで何が行われていたのかを解明していきたいと思います。
ベンタナス神殿の近くで出土した土器は、同じシカン文化に属しつつも、ロロ神殿の周囲で出土する土器とは少々様式が異なります。それぞれの貴族家系が独自の生産システムを持っていた可能性があり、胎土分析などによってこれを検証する必要があります(現在、分析資金を獲得するための準備を進めています)。大きな壁で仕切られた祖先神殿が巡礼地として機能したのであれば、貴族家系間は競争関係にあったのかもしれません。シカン神への信仰に基づく宗教信仰を共有しながらも固有の経済システムに依存していた可能性があります。それぞれの家系は新しい信者を求めて競い合っていたのかもしれません。
これまで、紀元後1050年から1100年の間に起こったとされる大規模なエルニーニョをきっかけにシカン社会は一度衰退し、首都に暮らしていた貴族たちは祖先神殿に火を放たれ、近隣のトゥクメ遺跡に追われたと考えられてきました。シカンの歴史はこのトゥクメへの遷都を境に中期シカン期と後期シカン期という2時期に区分されています。これは土器様式の変化にも呼応しています。今回の発掘で見つかった饗宴跡は、土器様式から判断して、中期シカン期ではなく、後期シカン期のものでした。これは後期シカンに入っても遺跡が放棄されずに、大規模な饗宴が継続して催されていたことを示唆しています。これにより、中期から後期シカン期への移行期の社会動態に関する従来説を見直す必要が生じました。今後の研究に、新たなテーマを提供することとなりました。
また、ロロ神殿とベンタナス神殿のちょうど間くらいの位置に大きな窪地があったことも分かりました。確かに現在の地表面を見ても、このあたりは周囲に比べて少し低くなっており、洪水のたびに大きな湖が出来ます。2つの神殿の間では貴族家系間の関係性を示すデータが得られることを期待していましたから、これはちょっとした驚きでした。現在の地表から3メートルほど下で見つかった斜面には日干し煉瓦が敷かれていました。
これは窪地が意図的に作られたことを示唆しています。窪地内には水が溜まったような痕跡も見つかったため、貴族たちが共同利用した貯水池であった可能性もありますし、ロロ神殿側の貴族家系が水に関連した儀礼の場として使用した可能性もあります。この窪地の全貌を明らかにすべく、先日新たな発掘のための研究資金を申請しました。
今後の予定
現在は発掘成果をまとめたペルー文科省向けの報告書を作成中です。同成果は来夏にペルー・リマ市で開催される研究会議にて発表することが義務付けられていますが、この他にも国内外の学会や学術誌などで積極的に発表していく予定です(※発表する予定だった十二月初旬の国内学会には間に合いませんでした)。これらと並行してリターンギフト(拓本のしおり、ビデオ、遺物図版など)の制作も進めています。一日も早く皆様のお手元に届けられるよう努めてまいりますので、もうしばらくお待ち下さい。
皆様のご支援のおかげで、研究を続け、重要なデータを集めることができました。改めて深くお礼申し上げます。
この記事を書いた人
- 日本学術振興会特別研究員PD(山形大学人文学部所属)。人類学博士。ハーバード大学ダンバートンオークス研究所ジュニアフェロー、南イリノイ大学非常勤講師などを経て、現職。南米アンデスの先史時代が専門。これまで、宗教やイデオロギーが社会の成立・発展・衰退のプロセスにおいて果たす役割を明らかにすべく、ペルー海岸地帯の祭祀遺跡での調査に従事。博士論文プロジェクトでは、多民族社会「シカン」の祖先崇拝信仰と関連儀礼を物的痕跡から復元し、その意味の解明を試みた。過去の発表論文はこちら。
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