突然ですが、みなさんはシカと聞いてどういうイメージをお持ちになるでしょうか? 修学旅行の定番である奈良公園や宮島でシカとふれあい、その可愛さに癒された人も多数いらっしゃると思います。

そんなシカですが、近年日本各地でニホンジカの個体数が増加し、森林や草原の生態系に大きな変化が起こっています。京都府南丹市にある京都大学芦生研究林もそんな場所のひとつです。芦生研究林は、近畿地方で最大規模の原生林を保有し、著名な植物学者であるの中井猛之進博士に「植物を学ぶものは一度は京大の芦生演習林を見るべし」と言わしめたほど、生物多様性の高い森林です。しかし、そんな芦生研究林も1990年代からニホンジカが増加してしまったことで、ササやアザミをはじめとするシカの好む草本類が食べ尽くされてしまいました。一見すると林内にはたくさんの草本が見られますが、実はそれらのほとんどはシカの食べない植物(不嗜好植物)なのです。

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芦生の林床の様子。シカの食べないシダの一種に覆われています

私が研究を行ったバイケイソウもそんな不嗜好植物のひとつです。

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バイケイソウの株

バイケイソウは京都府レッドデータブックでは要注目種に指定されており、京都府内では比較的珍しい植物でした。しかし、シカの増えた芦生研究林では、シカの食べないバイケイソウの姿が非常に目立つようになっています。今回は、そんなバイケイソウと、それを食べる昆虫のお話をします。

シカに嫌われても、昆虫に好かれる植物

2013年6月のある日、私の所属する研究室の高柳敦講師から「芦生のバイケイソウが何かに食べられている! 正体を突き止めてほしい」という依頼がありました。

先生から提示されたバイケイソウの写真を見てみると、葉は穴だらけ。

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バイケイソウの食害の様子

株によっては葉が完全になくなり、茎しか残っていないものもあります。おそらくバイケイソウを食べていると思われるイモムシもたくさん見つかったとのことなので、持って帰っていただきました。そのイモムシを観察してみると、一見してハバチの幼虫であることがわかります。

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ハバチの幼虫

植物を食べるイモムシはチョウやガの幼虫が有名ですが、ハチの仲間であるハバチの幼虫もイモムシのような形態をしています。つぶらな瞳をしており、一部の虫好きの間でその可愛さは有名となっています。しかし、これだけでは種の同定はできません。正確に種を同定するには、何としても成虫を捕まえる必要があります。ハバチの仲間は重要な森林害虫が多いため、種によっては生活史が詳しく研究されています。ハバチの成虫は春に発生するものが多いとのことなので、このハバチも春に発生するかもしれない……。そう予想して、翌2014年5月中旬に芦生に行ってみました。果たして、無事に成虫を採集し、バイケイソウを食い荒す生き物の正体を突き止めることはできたのでしょうか?

希少な植物を食い荒らす虫の正体は?

2014年の5月、私は高柳先生とともに芦生に向かいました。そこでは葉を開いたばかりの新鮮なバイケイソウが群生し、とても美しい風景が広がっています。バイケイソウに近づいてみると、何やら黒とオレンジの小さな昆虫が株の周りを飛び回っているではありませんか。予想どおり、昆虫の正体はバイケイソウハバチでした。

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バイケイソウハバチの成虫

本種はもともととても珍しい昆虫で、2014年当時、近畿地方では兵庫県と三重県で1カ所ずつしか見つかっていませんでした。当然、京都府で発見されたのは初記録です。しかも、バイケイソウの株の多い場所では無数の成虫が飛び回っています。試しにバイケイソウの地上茎の数に対するハバチの個体数を調べてみたところ、成虫は地上茎が増えるに従って、指数関数的に増加していることもわかりました。もともと希少種だったはずの昆虫がこんなにたくさん見られるのか……とても大きな感動を覚えました。

さらに、6月にも芦生を訪れたところ、バイケイソウの葉や茎の上には幼虫がいっぱい…! 食害のひどい場所では、葉がほとんど残っておらず茎も食痕だらけでした。

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食害のひどいバイケイソウの個体群。葉は完全に食べ尽くされています

バイケイソウはこの時期に開花茎を伸ばして花を咲かせるのですが、あまりにも食害がひどく開花茎を伸ばすどころではありません。もしかしたらバイケイソウの繁殖に何か影響を与えているのかもしれません。

こうした疑問を解決するために、9月に再々調査を実施しました。バイケイソウハバチの密度の高かった場所で、バイケイソウがどれくらい繁殖できたかを調べるためです。バイケイソウは秋にはすっかり地上部が枯れてしまうのですが、開花茎や果実は9月でもしっかり残っています。今回は各場所で残った開花茎や果実の数をひたすら調べました。結果は単純明快。やはりバイケイソウハバチの密度の高い場所は開花茎を伸ばす株が非常に少なく、また果実の数も少なくなる傾向にありました。

こうした現象のそもそもの要因は、シカに食べられないバイケイソウが増えたためです。したがって、もともと希少種であるはずのバイケイソウハバチの大発生は、シカの増加による生態系の改変がもたらした結果とも考えられます。

ひとまず、今回の研究紹介はここで終了となります。しかし、今後バイケイソウとバイケイソウハバチはどうなっていくのでしょうか。バイケイソウハバチの大発生がこれからも続くのか? その場合はバイケイソウの個体群にどのような影響を与えるのか? まだまだ興味が尽きません。数年後にまた芦生を訪れ、彼らの関係のその後を観察できたらと思っています。

この記事を書いた人

中浜直之

京都大学大学院農学研究科の中浜直之と申します。私は現在博士課程で、半自然草原における草原性絶滅危惧種の減少メカニズムについて研究している傍ら、日本各地で昆虫をはじめとする生物の分布調査をしております。