キレート剤―エチレンジアミン四酢酸の、意外な化学構造

「キレート」とは、ギリシャ語の“カニのはさみ”に由来する言葉です。あたかもカニがハサミでおにぎりを掴むかのように金属イオンに配位結合する配位子は、化学分野において、キレート剤と呼ばれます。キレート剤は、化学分析に使用されるほか、食品添加物、医薬品、シャンプーなどにも広く利用されています。その最も代表的なものに、エチレンジアミン四酢酸(EDTA)があります。理工系大学などで、分析化学や分子生物学分野の実験や講義を通じて学ばれるほか、多くの最先端研究でも汎用されています。

カニがキレート剤、おにぎりが金属イオンのイメージ

私が勤務している大学の学生実験でも、ご多分に漏れず、EDTAを用いるキレート滴定の実験が行われております。そうしたなか、EDTAの化学構造の表し方に、実は2通りのものがあって、教科書によって異なる表記がされていることを、とある先生から教えていただきました。それを受けて、仕事と仕事の合間に関連する文献を集め、精査しました。

その結果、紆余曲折の歴史的な経緯を経て、高校化学で学ばれているアミノ酸と同じく、EDTAも分子内で塩を形成した双性イオンとして存在しているらしいことがわかりました。ただ、その歩みは、意外なことに、化学教育に携わる人々のあいだで、あまり認識されていないことを確認するに至りました。

そこで、このことを、総説「EDTAの化学構造表記にみられる混乱―分子か双性イオンか」にまとめて報告したうえで、化学のポータルサイト「Chem-Station」で、2021年に「EDTA:分子か,双性イオンか」という記事で紹介しました。

EDTAの構造式

EDTAとその塩の結晶が、発光する!?

さて、その後もEDTAのことをいろいろと調べていくうちに、紫外線を照射することでEDTAとその塩の結晶が室温で発光することが最近になって発見されていたことがわかりました。この現象を「Chemical Communications」誌で2021年に報告したZhengらの論文では、EDTAの塩について、アンモニウム、アルカリ金属(リチウム、ナトリウム、カリウム)およびアルカリ土類金属(マグネシウム、カルシウム、ストロンチウム、バリウム)のそれぞれの結晶が光る、とされています。この現象は、これまでの化学の常識を覆すものです。というのも、分子やイオンが紫外線を吸収し、そのエネルギーを光として放つことは、重金属イオンや、共役系を有する芳香族化合物などに限られるというのが、それまで普通とされてきたことだったからです。

物質が紫外線照射によって光を放つのに必要と思われるこうした要素は、EDTAとその塩には、一見したところ、なさそうです。しかしながら、先述の研究者らは、EDTA中の窒素原子や酸素原子の孤立電子対が空間を通じて共役するために光るのだろう、と推測しています。ところが、発光する要因を考察する際に重要であると思われる各化合物中の原子間距離を見積もるための結晶構造データに関しては、その論文では、EDTAとそのナトリウム塩のわずか2種類についてしか参照されていませんでした。

文献調査では、EDTAとそのアンモニウム塩、あるいはアルカリ金属およびアルカリ土類金属の塩には、結晶構造解析を既に報告したいくつもの先行研究によって、合わせて42種類があることに気づきました。そこで、EDTAおよびその塩の結晶構造に関する既存の実験データを、ケンブリッジ結晶学データセンター(CCDC)から収集し、EDTAとその塩(アンモニウム塩、アルカリ金属塩、アルカリ土類金属塩)に分類し、結晶中におけるEDTA分子内の接触原子間距離の分布などを調査し、論文にまとめることを決意しました。

EDTAにおける分子内酸素-窒素原子間距離の分布

戦禍のウクライナにおける化学研究

ウクライナがロシアに侵攻されたのは、2022年2月のことでした。それ以来、世界中の人々が平和を願ってさまざまな活動をしています。それを見て、私もウクライナの人々そして世界の平和のために何か自分にできることはないか、と模索していました。

調べるうち、ウクライナでは戦禍のなかにあっても、自前の化学ジャーナルが継続されて運営されており、査読付き研究論文のオンラインでの発行が絶えることなく続いていることを知りました。つまり、戦闘に加わっていないウクライナ国民は、努めて日常を保ちながら生活する努力を積み重ねているのです。

そこで、ウクライナ化学ジャーナル(Ukrainian Chemistry Journal)のウェブサイトにアクセスし、原稿の執筆要項をダウンロードし、内容を確認して書式を整えたうえで作成した論文の原稿を、投稿しました。ほどなくしてウクライナ化学ジャーナルの編集長からメールで返信があり、私が送った原稿に対し、査読者による的確なコメントが寄せられました。

やり取りの途中で、査読者のコメントの一部に、私の力量では適切に応じられないと思われた項目があり、いったんは投稿を辞退する旨を伝えたこともありました。そうしたところ、取り下げは必要でないと編集長より激励してもらうこととなり、原稿には大幅な加筆・修正を施しました。再度送った原稿は最終的に受理され、2022年の年末にオンラインで無事に公開、となりました。

ウクライナ化学誌(Ukrainian Chemistry Journal)掲載号

調査における苦労

本研究を行う上でカギとなった文献調査で難航した点を挙げておきます。EDTAの結晶構造解析を1962年に報告した論文の書誌情報がケンブリッジ構造データベースに英語で登録されていました。図書館を通じて複写を取り寄せて綿密に調査した結果、中国で発行された雑誌にロシア語で執筆されていたことが判明しました。

さらに、のちにこの論文がデータベースに登録された際、著者の姓と名が逆に表記されたうえ、掲載誌の巻数や頁数も間違っていたため、うまく見つけられなかった、ということがわかりました。ただ、この論文で示されていた研究内容は、当時としては先駆的な取り組みであったと考えられます。欧米の学術誌に英語で発表されたものではなかったために、これまで、ほとんど注目されてこなかったのでしょう。

もうひとつ、EDTAおよびその塩の結晶構造解析を報告した各研究が、互いを十分に参照していなかった点が、縷々見られました。EDTAの塩の結晶が偶然にできたためにとりあえず報告したであろうケースがいくつかありました。そうした研究論文を1つひとつ探し出しては統合する作業の積み重ねの上に、本研究が生まれたといえます。

こうした曲折を経て、EDTAおよびその塩の分子内における酸素-窒素原子間距離の分布を示すグラフを作成できました。EDTAおよびその塩の発光が、本当に各原子の孤立電子対における空間貫通共役によるものであるならば、それぞれの原子間距離に応じた発光挙動が観察される可能性があるでしょう。私自身でEDTAの発光性を観察する実験を行っているわけではありませんが、もしそうした研究が新たに検討されるならば、本研究が基礎的な資料のひとつとして活用されることが期待されます。

2023年2月現在、今なお、ウクライナにおける戦禍が収束する兆しは見えません。ウクライナおよび世界に一刻も早く平和が訪れることが強く望まれます。

参考文献

・Daisuke Noguchi “ANALYSIS OF SPECIALTIES OF CRYSTAL STRUCTURE FOR NON-CHELATE CONFORMATIONS OF ETHYLENE-DIAMINETETRAACETIC ACID AND ITS SALTS WITH ALKALI AND ALKALINE EARTH METALSUkrainian Chemistry Journal 2022, 88, 10, 55-69.
・野口 大介 「EDTAの化学構造表記にみられる混乱―分子か双性イオンか」 技術・教育研究論文誌 2021, 28, 1, 27–36.
・野口 大介 「非キレート性エチレンジアミン四酢酸(EDTA)とその塩における分子内・分子間水素結合」 長崎大学大学院工学研究科研究報告 2023, 53, 100, 87-94.

この記事を書いた人

野口 大介
野口 大介
長崎大学大学院工学研究科教育研究支援部 技術職員
[経歴] 2007年 長崎県立諫早高等学校 講師、2009年 長崎県立長崎北陽台高等学校 教諭、2012年 長崎県立猶興館高等学校 教諭、2016年から2019年まで私立高等学校に勤務し、2019年6月より現職、(兼)長崎県立長崎西高等学校化学部 外部指導者。