※ 本記事は、academistのクラウドファンディングプロジェクト「人文・社会科学分野の若手研究者が抱えるキャリアの問題とは?」をもとに行われた調査結果を報告したものです。

はじめに

アカデミアにおける近年の共通の課題として、若手研究者の育成をめぐる問題を挙げることができるでしょう。ですが、当然のことながら一言で若手研究者の育成といっても、その環境は分野間において大きく異なります。特に、人文学・社会科学系においてはポスドクとしての雇用先が少なく、専業非常勤講師(複数の大学の非常勤講師職によって生計を成り立たせている研究者)からテニュアへの就職が一般的である以上、非常勤講師歴を含めた教育経験の積まれ方は、研究者のキャリア形成において非常に重要な影響を与えていると考えられます。

しかしながら、日本における高等教育政策において、この点が十分に認識されていておらず、また基礎的なデータも不足しています。以上の観点より、本コラムでは著者が2019年に行った調査結果をもとに、人文社会科学系の若手研究者のキャリアラダーに関する認識・現況の分析を通じて、現代日本における若手研究者の育成に関する問題を考察していきます。

調査の実施概要

まず、本コラムのもととなった調査の概要の結果をご説明します。本調査は若手研究者(着任後5年以内の専任教員[テニュアトラック含む]・ポスドク・博士後期課程院生、比較対象として自然科学系を含む)を対象としたものであり、2020年1月14日-2月14日に実施されました。なお、本調査は特定非営利活動法人STeLA Japanとの共同で実施したものです。

アンケートの回収方法としては、SNSや著者が所属する学会・研究会への呼びかけを通じて、アンケートの回答依頼を行いました(回収数:179うち有効回答数:169)。そのため、本調査はいわゆるサンプリング調査の要件を満たしていないことから、その結果を若手研究者全体の傾向を正確に表すものとして捉えることはできません。しかしながら、そこに現れているいくつかの傾向については、人文学・社会科学系研究者のキャリアラダーを考えるうえで非常に示唆的なものであると考えられます。

以下では、まずアンケート回答者の基礎的な属性を抑えたうえで、アンケート実施内容のうち、特に上記の論点に関係する設問の回答結果とそこからわかる考察結果を述べます。なお、本コラムにおいてはアンケート調査回答者を対象としたインタビュー調査の結果を踏まえた考察も行っておりますが、そのデータの詳細については紙幅の都合上、割愛しています。

アンケート回答者の属性

本調査においては、人文学・社会科学系の比較軸として、自然科学系の方も対象に調査を行いました。そのため、以下ではこの2つを比較する形で、人文学・社会科学系研究者のキャリアラダーにおける非常勤講師職の意味を考察することとします。

分野別性別比・年齢

まず、この表は本調査における回答者の性別・年齢の割合を表したものです。見ていただければわかるように、本調査においては人文学・社会科学系+自然科学双方において性別比の大きな変化は見られません。このことから、データを読み取るにあたって、分野間の差異を検討する際に、ジェンダー構成の偏りを考慮する必要性はそれほどない一方、分野間に存在するジェンダー構成の差異が、本調査においては織り込まれてない可能性が高いことが示唆されます。一方で、回答者年齢については人文学・社会科学系のほうが平均的に高い傾向が見られますが、これは一般に人文学・社会科学系にて、博士後期課程への在籍期間が標準年限を越える傾向にあることを反映しているものと思われます。

分野別のアカデミア上の地位

上の表は、それぞれ回答者のアカデミア上の地位を示すものです。回答者のうち、約半数は博士後期課程に在籍中の大学院生が占めており、残りがテニュア教員・ポスドクであるという分布自体は人文学・社会科学と自然科学で大きく変わることはありません。ただし、「博士後期課程を修了・満期退学後、現在は専業非常勤講師として働いている」と答えた層が、人文学・社会科学のみに認められる(10.3%)ということは、注目に値します。このことは、当該分野においては「専業非常勤講師」とも呼べる存在が、暗黙裡のうちに制度化されていることを意味しているからです。

若手研究者のキャリアラダーにおける非常勤講師職の意味

このように今回の調査では、人文学・社会科学系においてのみ、「専業非常勤講師」という職種の存在を認めることができました。では非常勤講師という職は、各研究分野の若手研究者においてどのような位置づけにあるものなのでしょうか。以下ではアンケート調査結果からそれを見ていくこととしましょう。

非常勤講師への応募・採用経験

まず、非常勤講師への採用経験について見てみましょう。注目されるべきは、「応募経験はあるが、採用された経験はない」と答えた層が人文学・社会科学においてのみ認められること、「非常勤講師に応募した経験はなく、採用されたこともない」と答えた層が、自然科学系において顕著に多いということです。このことは、人文学・社会科学系の若手研究者においては、非常勤講師職への応募や、非常勤講師としての就労が一般的であるということを意味しています。非常勤講師職に就いている人文学・社会科学系の研究者の半数が、週平均3コマ以上、非常勤講師として勤務していると答えていることからも、人文学・社会科学に属する若手研究者の生活のなかで、非常勤講師職が重要なウェイトを占めていることがわかるでしょう。

とはいえ、人文学・社会科学系において、いわゆるポスドク職が自然科学系に比して少ないことを鑑みるのならば、専業非常勤講師職が成立しているのは、ポスドク職の少なさを埋め合わせるために結果的に行われていることを示しているだけともいえるでしょう。すなわち、こうしたデータだけでは、非常勤講師に代表される「教育経験」が、テニュア教員になるためのキャリア形成において重要視されているのかを見極めることはできません。

就職・転職時における教育経験・業績の重要性

しかし、キャリア形成における要素(研究業績、教育業績・経験、博士号、出身大学のブランド、教務に関する資格)をその重要度順に並べることを要請した設問の回答を見てみると、「教育業績・経験」が人文学・社会科学系においては比較的重要視されていることがわかります。人文学・社会科学系においては「教育業績・経験」が1番重要であると答えた層は11.5%(自然科学系は3.7%)、2番目に重要であると答えた層は39.1%(29.3%)と、自然科学系に比して教育業績・経験が重要視されています。

このことから、非常勤講師職は、人文学・社会科学系研究者のキャリアラダーにおいて重要な役割を果たしていることがわかります。それはテニュア教員になるまでの生活資金源であり、教育経験を積むためのトレーニングも兼ねたものとなっているのです。

では、若手研究者の非常勤講師職へのアクセスシビリティは、果たして高いものといえるのでしょうか。ここで注目されるべきは、非常勤講師の初任のほぼすべては、非公募の推薦形態で決まっているということです。

非常勤講師初任時の採用プロセス

特に「非常勤講師初任時の採用プロセス」の結果を見ると、人文学・社会科学系においては、「研究室の先輩・同僚や研究会に参加している若手研究者・教員からの紹介」が全体の63.5%を占めており、いわば研究者が所属する内的なコミュニティのなかで非常勤講師の採用が決定されていることがわかります。つまり、人文学・社会科学系においては、非常勤講師は若手研究者のインフォーマルネットワークのなかで融通されている可能性が示唆されます。

教育経験の主体的獲得可能性

こうした傾向は、教育経験・業績の積み上げにおける主体的形成の可能性に関する回答結果にも現れています。人文学・社会科学系においては、自然科学系に比してより教育業績・経験は主体的に積むのが難しいと答える層が多い傾向にあります。さらに、教育経験がないことによって非常勤講師を拒絶された経験がある回答者は、人文学・社会科学系全体の12.4%にのぼり、「類似の例を聞いたことがある」と答えた層は全体の38.0%に上るなど、少なからぬ人々が、教育経験が無いことによって非常勤講師職に就くことが出来ず、教育経験が獲得できない可能性があると認識しています。これらのことは、一部の若手研究者が、非常勤講師の採用時にハラスメントがあったと答えていることの背景にある要因であると、考えることもできるでしょう。

こうした非常勤講師職をめぐる問題・トラブルは、非常勤講師採用がインフォーマルなネットワークで構築されていることの弊害であると考えることができますが、そもそもなぜ常勤職と異なり、非常勤講師職は公募で採用されることが少ないのでしょうか。この点については非常勤講師職に採用コストをそれほど割くことができない大学側の事情も考慮すべきでしょうが、結果的に教育経験獲得のアクセシビリティが、きわめて不均衡な形で処理されていることは明白であるように思われます。

また、こうした不均衡性が、採用側と雇用側の間のパワーバランスに影響を与え、ハラスメントなどの温床となる可能性についても留意しなければならないでしょう。教育経験が自己のキャリア構築において重要であるにもかかわらず、それがままならないこと。それが現状の人文学・社会科学の若手研究者のキャリアラダーを考えるうえで、非常に重要な問題であることを、これらの調査結果は示唆しています。

おわりに

さて、本調査において、人文学・社会科学系における非常勤講師職の役割に関連して判明したことは以下のことです。

第一に、人文学・社会科学系においては、「専業非常勤講師」とでも呼ぶべきキャリア段階にいる若手研究者が一定数認められます。彼らの多くは、若手研究者として活発な研究活動を行っていますが、往々にして研究者キャリアラダーの周縁に位置しており、それゆえ制度的補助(科研費番号交付など)を十分に受けておらず、多くの大学の非常勤職を掛け持ちしながら生計を維持しているものと思われます。

第二に、人文学・社会科学系においては、非常勤講師職に代表される教育経験は、研究業績や博士号と同等程度には、テニュア職に就くために重要なものであるとみなされているということです。こうした業界内の共通認識が、専業非常勤講師という職制を、制度的に維持している要因となっていることは間違いありません。

第三に、こうした業界内の認識がありながら、非常勤講師ポストは多くの場合インフォーマルな形で選考などが行われており、そのため若手研究者のキャリア形成に負の影響が生じているということです。つまり、教育経験を積むためのジョブとして、業界内において非常勤講師職は一定程度位置付けられている一方で、それにふさわしい形での雇用機会が十分に提供されていないことを、これらのデータは意味しています。

こうした状況を変えるにはどうすればよいでしょうか。まず、文科省に代表される大学行政を把握している組織が、本問題を認識し、大学側に働きかけを行うことが考えられるでしょう。たとえば、科研費番号に関する問題や、アンケートで見られた「非常勤講師職に就くために非常勤講師経験が求められる」という問題は、特段の予算などなしにこうしたアプローチで解決が可能であると見込まれます。

一方で、現状のこうした非常勤講師職に就くための障壁の存在が、専業非常勤講師という職制を可能としている面もあり(複数のコマを抱えられないと、生活可能な収入を得ることができない)、こうした障壁を一挙になくすことで、一部の若手研究者が困窮するといった状況も容易に想像されます。こうした問題をすべて解決するためには、非常勤講師職の給与向上や、若手研究者への生活保証制度の構築などが必要となると思われますが、そのためには国家による教育予算への投資拡大が不可欠となるため、短期的な解決は困難であると思われます。

こうした複雑な構造のなかに埋め込まれた、若手研究者のキャリアラダーの改善方策を生み出すためには、おそらくはより詳細な社会調査が必要とされるでしょう。たとえば人文学・社会科学系といってもその内実は下位領野においてさまざまでしょうし、地域の特性もこの問題に大きく影響していると考えられますが、本調査ではさまざまな事情により、これらの分析に足るだけの調査設計を行うことができませんでした。本調査の知見を足掛かりとして、今後類似の調査が公的機関や科研費グループなどによって、行われることを願ってやみません。

なお今年度も筆者は引き続き、若手研究者のキャリアラダーについて、アンケートにご回答いただいた方を対象としてインタビュー調査を行っていく予定です。8月から9月にかけてご連絡をさせていただきますので、みなさまなにとぞご協力のほど、お願いいたします。

クラウドファンディングサポートのお礼

本調査の遂行にあたっては、クラウドファンディングプロジェクト「人文・社会科学分野の若手研究者が抱えるキャリアの問題とは?」の達成が大きな励みとなりました。クラウドファンディングに参加いただいたみなさまに対し、重ねて御礼申し上げますとともに、ご許可を頂きました参加者の方のお名前をここに掲載させていただきます(順不同・敬称略)。

小川たけし、赤木紀之、山下良太、山本千寛、馬場基彰、半谷吾郎、川畑詩子、大浦瑞樹、堀江郁智、薗田知佳、人見琢也、寺口 司、金井壱匡、白尾安紗美、倉地真太郎、入江満、辻井敦大、山本伸彦、宮崎和也、馬渡玲欧

この記事を書いた人

林 凌
林 凌
東京大学大学院 学際情報学府 博士課程
林凌(はやし りょう)と申します。専門は歴史社会学。普段は経済学的な物事の考え方が、近代日本においてどの様な形で普及していったのかについて、特に「消費者」という言葉の歴史に着目することで研究をしています。本クラウドファンディングは、日頃若手研究者が直面する様々な理不尽を見聞きする中で、何らかの働きかけが出来ないかと思い、始めたものです。(詳しい研究成果などはこちら、研究内容や本クラウドファンディングの動向に関する記事を公開しているブログはこちら)。