Screen Shot 2016-04-14 at 12.55.31 PM
クズルウルマック河(トルコ語で「赤い河」)。ヒッタイト時代にはマラシャンティアと呼ばれていました。

中近東の古代文明といえば、エジプト文明やメソポタミア文明が有名ですが、こうした文明が栄えた時代、今から約4500年前のアナトリア中央高原(現在のトルコ共和国)には、ヒッタイトという王国が成立しました。ヒッタイト人について、高校世界史の教科書では「インド=ヨーロッパ語系で、世界に先駆けて鉄製の武器を使用し、メソポタミアに遠征してハンムラビ王で有名なバビロン第1王朝を滅ぼし、またシリアではエジプトとカデシュの戦いで対決した」というような説明がされています。

これだけ聞くと、ヒッタイト人とは鉄製の武器を使って遠征を繰り返した人々という、好戦的なイメージをもたれるかもしれませんが、実は外交によって諸国と共存をはかった現実的な人々であったという一面もあります。ヒッタイトの首都ハットゥシャの遺跡で見つかった楔形文字粘土板文書には、ヒッタイト王が諸外国と交わした条約や書簡などが確認されており、彼らの外交活動が明らかになっています。たとえば、エジプトとの戦争の数十年後には、両国の王がいわゆる「カデシュ条約」を締結しており、それは世界初の平和条約といわれます(レプリカがニューヨークの国連本部の壁に飾られていました!)

イスタンブール考古学博物館所蔵のカデシュ条約
イスタンブール考古学博物館所蔵のカデシュ条約

当時の国と国の関係は、王と王の関係でした。ヒッタイトの王は、他国の王とどのような関係を築こうとしていたのか? そんな彼らの心に迫るには、人間関係を表す言葉一つひとつの使われ方から、当時の人の「ものの捉え方」を考えるのが有効な方法だと考えます。たとえば、「条約」と訳されるヒッタイト語の言葉「išḫiul」は、今日のような独立国どうしの対等な取決めを意味しません。「条約」という言葉のもとになった動詞は、「敵兵の手足を縛る」といった意味で使われることから、ヒッタイト語の「条約」には一方の王から他方に「強制的に義務を課す」というニュアンスがあります。つまり、本来、ヒッタイト語で「条約」は、王が相手よりも優位であることを示す文書だったのです。

ishiul
「条約」と訳されるヒッタイト語の言葉「išḫiul」

ヒッタイト王国の歴史

そもそもヒッタイト王国とは何なのか、簡単にご紹介したいと思います。ヒッタイトの歴史は、紀元前17世紀半ば~14世紀の古王国時代と前14世紀~12世紀初めまでの新王国時代(帝国時代)に大きく分けられます(言語的特徴から中王国時代を入れて三区分されることもあります)。古王国時代は、紀元前17世紀半ばに、都をハットゥシャに定めた王ハットゥシリ1世の治世に始まります。ハットゥシリの後継者ムルシリ1世は、メソポタミアに侵入してバビロン第一王朝を滅ぼしました。しかし、彼は歴史的偉業を成し遂げたにも関わらず、バビロンを支配することなく本国に戻りました。彼の治世後は内紛が続き、長い混乱の時代を迎えることとなります。

前1350年ごろと前1220年ごろのオリエント世界(『世界の歴史1人類の起原と古代オリエント』から引用)
前1350年ごろと前1220年ごろのオリエント世界(『世界の歴史1人類の起原と古代オリエント(中央公論新社)』から引用)

王国の危機的状況を収拾したのが、中央集権体制を確立させた前14世紀初めの王トゥドゥハリヤ2世とアルヌワンダ1世でした。その後、シュッピルリウマ1世の治世に、王国は新たな時代を迎えます。シュッピルリウマは、特にシリアへ遠征して諸国を征服し、アナトリアを越えた、広域な支配を実現したのです(そのことから、新王国時代は帝国時代とも言われます)。彼は、現地の有力者を征服国の王に任命し、自分との宗主関係を著した文書を作成して服従を誓わせることで、本国から遠い国々でも持続的な支配を可能にしました。このとき使われた文書が、ヒッタイト人にとっての本来の「条約」なのです。シュッピルリウマ1世治世後は、ムルシリ2世がアナトリア西部にまで帝国を広げ、続くムワタリ2世は、シリアでエジプト第19王朝のラメセス2世率いるエジプト軍と対決し、事実上の勝利を収めました。その後、国内の内紛を制したハットゥシリ3世がラメセス2世と平和条約を結び、両国の友好関係が始まりました。しかし、次のトゥドゥハリヤ4世の治世には周辺からの圧迫が強まり、スッピルリウマ2世の時代に首都が放棄されたことで王国の歴史は幕を閉じました。

ヒッタイト人の「愛」?

新王国時代のヒッタイト王は、王女を諸外国に嫁がせたことがわかっています。有名な例でいえば、平和条約締結後にハットゥシリ3世は娘をエジプトのラメセス2世と結婚させています。このような政略結婚は、重要な外交戦略のひとつでした。

ところで、言葉も通じない異国に嫁いだヒッタイトの王女たちは、どんな気持ちだったのでしょうか? 異国の王とどんな仲だったのでしょうか? 残念ながら、彼女らの思いは文書上に残ってはいません。出土している粘土板文書は基本的に公文書であり、政治や国家的な祭儀にかかわるものがほとんどで、王女のような高位の人々のことであってもあまりわかっていませんし、一般人の日常生活となるとなおさら謎に包まれています。しかし、自由恋愛の末に結婚があったとは考えにくいですが、日々の生活の中で、恋愛や夫婦愛といった男女の「愛」はあったのではないかと想定されます。

アナトリア文明博物館所蔵の王と王妃のレリーフ
アナトリア文明博物館所蔵の王と王妃のレリーフ

新王国時代の王ハットゥシリ3世の残した文書には、次のような一節があります。

「私たち(=ハットゥシリとプドゥヘパ)は結婚し、女神は私たちに夫と妻の愛をもたらした。そして私たちは息子たち、娘たちをもうけた。」

ここでは、ヒッタイト語で「愛」を意味する言葉「aššiyatar」が、「夫婦愛」として使われています。子供をもうけたという文が続くことからは、性愛を指しているのかもしれません。では、この言葉は他の粘土板文書ではどのように使われているのでしょうか。これまで、王の心をヒッタイト語の表現から理解しようとしたのと同じ方法で、ヒッタイト人たちにとっての男女の想いに迫れるのではないかと考えています。

assiyatar
ヒッタイト語で「愛」を意味する言葉「aššiyatar」

現在、ヒッタイト人たちの「愛」を調べるための研究資金をクラウドファンディングで募集しています。ご興味のある方は、ぜひ私のプロジェクトページをご覧ください。

(参考文献)

  • Collins, B.J. (2007) The Hittites and Their World, Atlanta
  • 大貫良夫他 (1998)『世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント』, 中央公論新社.
  • 山本孟 (2015) 「ヒッタイトの「条約」と「婚約」の概念:動詞išhiyahamenk-に関する一考察」,『オリエント』, 572,  pp.1-15.

この記事を書いた人

山本 孟
山本 孟
2015年3月京都大学大学院文学研究科博士後期課程を指導認定退学。専門は古代トルコの王国ヒッタイトの歴史です。2007年に行ったトルコ旅行で遺跡と粘土板文書を見たのがきっかけで、ヒッタイト王国に興味をもちました。現在は、非常勤講師という身分ではありますが、いわゆるオーバードクターです。博士論文の完成に向けて、ヒッタイト王国の政治・外交政策に関連する言葉の使われ方を研究中です。仕事も趣味も、「古代に生きた人々に思いを馳せること」に尽きます!