歴史の欠片

私はこの数十年、陶磁器の欠片ばかり見てきました。陶磁器を焼いた窯跡で失敗して捨てられた欠片、運んでいた船とともに沈んだ欠片、それらが波によって浜に打ち上げられた欠片、そして、街中に埋もれた遺跡から見つかる欠片など、さまざまな欠片です。

最近は、アフリカのザンジバルの海岸を歩きました。波によって浜に打ち寄せられた陶磁器の欠片を探すためです。海岸には貝殻、ガラス、ゴム製品などさまざまなものが寄せられます。陶磁器もそのひとつです。海岸をうつむきながら歩いていると、貝殻を集めているのかと勘違いされ、地元の人が貝殻を集めて持ってきてくれることがあるのですが、私が欲しいものは美しい貝殻ではなく、陶磁器の欠片、それは言うなれば歴史の欠片です。その歴史の欠片を手にしながら、指先で表面をなぞったり、割れ口をながめたり、光にかざしてみたりします。ゴミのように見える欠片ですが(確かにもともとはゴミだったのですが)、いろいろなことを教えてくれます。

アフリカのザンジバルの海岸線
ザンジバルはかつて奴隷貿易、スパイス貿易、象牙貿易などの拠点として栄えた。

陶磁器の欠片が歴史の欠片となることについて簡単に説明しますと、まず陶磁器は脆くて壊れやすいが故に残りやすいと言えます。少し矛盾しているように思えますが、割れた陶磁器は再利用が難しく、壊れるとすぐに捨てられてしまいます。そして、土の中や水の中にあっても腐ってなくなったりしませんので、欠片がそのまま残ります。そのため、大量に残り、見つかることになります。また陶磁器は時代をよく映しています。その時々の社会の流行やその地域の食生活などが陶磁器の文様や形に反映されています。そのため、考古学者にとって、陶磁器の欠片は時代の情報の断片であり、それが大量に残されるので、出土した陶磁器資料は歴史情報の宝庫として扱われるのです。

中南米で発見された伊万里

私は江戸時代に九州北西部で焼かれていた肥前磁器、いわゆる「伊万里」の海外流通を研究テーマのひとつにしています。肥前磁器は17世紀初めに日本で初めて焼かれた磁器です。主要な生産地は有田や波佐見などでしたが、積出し港の名前に因んで、「伊万里」と呼ばれました。

そして、この10年くらいは中南米やカリブ海を中心にフィールド調査を行ってきました。中米のメキシコ、グアテマラ、パナマ、カリブ海のキューバ、そして、南米のペルー、コロンビア、アルゼンチン、チリの調査を行ってきました。少しずつ遠くへ、遠くへ旅を重ねて、伊万里が焼かれた場所から最も遠い、文字どおり、地球の裏側まで出かけて陶磁器の欠片を探すことになりました。

それでは中南米で発見される伊万里の欠片はどんな意味を持つのでしょう。江戸時代の日本は、いわゆる「鎖国」時代です。海外輸出港である長崎から伊万里を積み出せる船はオランダ船と唐船に限られていました。一方、アジアとアメリカ大陸を結んでいたのはスペインのガレオン船でした。スペイン船は長崎には入ることすら許されておらず、伊万里が太平洋を越えて運ばれていたとは考えにくいものでした。事実、そのような記録もありません。このように文字が表す歴史の舞台にはまったく現れないのですが、中南米で見つかる小さな欠片は、何者かがアメリカ大陸へ伊万里を運んでいたことを物語るのです。

ガレオン貿易ルート
伊万里は、長崎から台湾を経てマニラに運ばれた。そして、ガレオン船で太平洋を越えていった。

太平洋を渡った伊万里

スペイン人が直接、伊万里を手に入れることができなければ、何者かが持ち出した伊万里をスペイン人が手に入れていたということになりますが、伊万里がアメリカまで運ばれた過程を知ることは容易ではありませんでした。その旅路の痕跡は、ヘンゼルとグレーテルが残したパン屑のように失われてしまうものの方が多いからです。しかし、残された白い石を拾うように、丹念に見つけて追いかければ少しずつ見えてきます。

そして、これまでの10年間の中南米の陶磁器の欠片の調査でわかったことは、次のような伊万里の旅路とライフヒストリーです。まず江戸時代に佐賀県の有田あたりで焼かれた伊万里が長崎に運ばれ、中国商人などの唐船によって台湾を経由しながら、マニラに運ばれました。マニラには中国人たちの居住商業地域であるパリアンやスペイン人の居留地であるイントラムロスがあります。イントラムロスのスペイン人は日本に来航することなく、中国商人らがマニラに輸入した伊万里を手に入れ、それをガレオン船に積み込み、数ヶ月かけて太平洋を渡り、メキシコのアカプルコまで運びました。さらにそれを陸路で標高2000メートル以上の高地の大都市であるメキシコシティまで運び上げ、スペイン人たちは食事をしたり、チョコレートを飲むことに使いました。使っているうちに、割れて壊れた結果、捨てられて都市の地下に埋もれてしまい、今世紀になって発見されたというものです。

メキシコシティの市街地の地下から掘り出されたチョコレートカップなどの伊万里

メキシコだけではなく、中南米各地の遺跡から伊万里の欠片は出土しますから、アカプルコに荷揚げされた伊万里が中南米各地に流通していたことがわかります。そして、それらがどういったものであったか、知ることもできます。また料理や飲み物は消えて無くなりますが、それを食べたり、飲んだりした器から当時の人々の生活を窺い知ることもできるのです。

コロンビアのトゥンハの教会に残る伊万里の皿
多くはヨーロッパ産の皿であるが、マリア像の右後方に1点だけ伊万里が残る。

研究の空白地、アフリカ大陸へ

中南米の次はアフリカと決めていました。アフリカは伊万里の海外輸出の研究にとって、残されている大きな空白地です。オランダの補給基地であったケープタウン周辺を除いて、今までアフリカ大陸部で伊万里の欠片が見つかっているのはわずか3か所ほどしかありません。エジプトのフスタート遺跡、ケニアのモンバサ、タンザニアのキルワ・キシワニで見つかった数片です。

しかし、私は数多くの伊万里がオランダ船以外の船によってアフリカへ広く運ばれたという仮説を立てています。その仮説とはこうです。まず唐船が長崎から東南アジアに輸出し、それをイスラーム商人やインド商人、ポルトガル商人が運んだというものです。アジアとアメリカの接続点はマニラが主でしたが、アジアとアフリカの場合はもっと多様かもしれません。インドネシアのバタビアやバンテン、時にはマカオもその役割を果たしていた可能性があります。今はまだわずかな手がかりしかありませんが、中南米の調査を始めた時もわずか4点の欠片からのスタートでした。きっと数多くの伊万里の欠片が発見されるのを待っていると思います。ザンジバルの海岸調査はその新たな調査の旅路の始まりとなるものです。

ザンジバルの海岸で採集された中国磁器
中国磁器が見つかる場所は、伊万里が見つかる可能性が高い。

伊万里が運ばれた「陶磁の道」から江戸時代の日本とアフリカの関わりを探るとともに、陶磁器を通して同じ時代のアメリカとアフリカを比較することも興味深いテーマとなりそうです。

陶磁器の欠片からわかる出来事は、おそらく人類の歴史のほんのひとかけらに過ぎません。しかし、私たちの多くの日常生活の積み重ねがそうであるように、特段、文字に記された歴史には現れないものであっても、それは確かな人類史の一部です。

参考文献

  • 野上建紀2008「アフリカに渡った伊万里」『アフリカ研究』72号pp.67-73
  • 野上建紀2017『伊万里焼の生産流通史—近世肥前磁器における考古学的研究』中央公論美術出版社

この記事を書いた人

野上建紀
野上建紀
野上建紀(のがみたけのり)。長崎大学多文化社会学部教授。博士(文学)。1964年北九州市生まれ。金沢大学文学部卒業、同大学大学院社会環境科学研究科修了。1989年より有田町歴史民俗資料館、2014年より長崎大学に勤務。2017年より現職。専門は考古学。専門分野は陶磁考古学、中近世考古学、水中考古学。陶磁器の生産と流通を研究テーマとしており、これまで国内外の窯跡、沈没船、都市遺跡の調査を行なっている。近年は主に東南アジアと中南米をフィールドとして肥前磁器の生産と流通について研究を行なっており、現在はアフリカのフィールド調査を計画中。主要著書は『伊万里焼の生産流通史』(中央公論美術出版、2017年)