ヒトの産休とチンパンジーの「産休」

現代の人間社会では、多くの国で女性が出産前後に産休をとることが認められています。会社で働く女性の出産のために国が法的に定めた産前産後休業制度のほかにも、さまざまな文化で出産後の回復期を定めて出産した女性を保護する慣習があります。たとえば、伝統的に日本では「産後の肥立ち」、中国では「坐月子」、ヨーロッパでは「confinement(lying-in)」と呼ばれる産後の期間がもうけられています。人間社会で出産に関するこうした慣習や制度があるのは、ヒトの出産がきわめて難産であり、出産時の母体にかかる大きなダメージから回復するのに一定の期間が必要であるためです。

ヒトにもっとも近縁な現生動物種であるチンパンジーでは、出産前のメスが集団の他のメンバーから離れ、しばらく観察されない不在期間のあとで新生児を抱いて戻ってくるという現象が知られており、メスが集団と一緒に遊動することを「休んで」出産していると考えられることから、研究者の間ではこれを「産休」と呼んできました。

しかし、野生チンパンジーの「産休」の存在を実証した研究はこれまでほとんどなく、また野生下ではチンパンジーの出産の観察事例が非常に少ないこともあり、出産前後のメスの過ごし方や出産前後の母子が抱えるリスクについては十分に調べられてきませんでした。また、野生動物のメスは出産後も自分で採食したり新生児の世話をしたり外敵から身を守ったりする必要があるため、実際には出産後も「休んで」いるわけではありません。そのため、野生チンパンジーで見られる「産休」の機能や進化的意義については、「産休」現象自体がこれまできちんと把握されてこなかったこともあり、長く不明なままでした。

オスによる子殺し vs. メスによる子殺しへの対抗戦略

霊長類を含む多くの哺乳類で、オスによる子殺しの事例が報告されています。その要因のひとつとして提案されているのが性選択仮説です。多くの哺乳類では、メスが子供に授乳している間は排卵を再開せず、次の子供を受胎しません。そのため、オスは自分と血がつながっていない離乳前の乳児を殺すことによって、メスの排卵の再開を早めさせ、自分の子を受胎させることが可能になることから、子殺しはオスにとっての繁殖上の利益があるという仮説です。

野生チンパンジーでは、これまで9つの異なる集団で45例の集団内での子殺しの報告がありましたが、性選択仮説のほか、栄養仮説(殺した乳児を食べることによって栄養的な利益を得る)や、資源競合仮説(食物資源や繁殖資源を争う可能性のある将来的な競合相手を殺すことによって資源獲得上の利益を得る)などの仮説が提案されてきました。

一方、メスにとっては、自分の子を殺されることは繁殖上の大きな不利益となるため、オスによる子殺しのリスクに対して、さまざまな対抗戦略を進化させてきたと考えられています。メスによる子殺しへの対抗戦略仮説のひとつであるリスク回避仮説では、出産後のメスが単独で過ごす時間を増やしたり、子殺しのリスクが高い状況から離れたりすることで、子殺しの危険を回避することが示唆されています。

メスにすばやく排卵を再開させるというオスにとっての繁殖上の利益を考えると出産直後の子殺しがもっとも合理的だと考えられますが、野生チンパンジー集団ではこれまで出産直後の子殺しは観察されたことがありませんでした。そもそも野生チンパンジー集団では出産の観察も少なく、これまでわずか5例しか報告されていません。この出産観察事例の少なさは、野生チンパンジーのメスが「産休」をとるため、つまり出産前後に姿を隠すためと考えられてきました。

しかし、観察が難しいこともあり、野生チンパンジーのメスが出産前後にどのような行動をしているのか、そもそも本当に「産休」と呼ばれる現象があるのか、またチンパンジーにも「産休」があるとしてそれにはどのような機能があるのか、などについてはこれまでほとんど調べられてきませんでした。

観察事例:出産直後の新生児をオスが奪って食べる

今回の私たちの研究は、2014年12月に、タンザニア・マハレの野生チンパンジー集団で、たまたまメスの出産とその直後のオスによる新生児の強奪・共食いを目撃したことから始まりました。20頭前後のチンパンジーの集まりを追跡・観察していたとき、デボタという名前のメス(推定14歳)が地面にうずくまった姿勢でいきなり出産し、デボタの後ろに座っていたダーウィンという名前のオス(25歳)が、生まれた瞬間の新生児を拾い上げて走り去り、その後この新生児を食べる様子が観察されました。これは、野生チンパンジーの出産の観察としては6例目、新生児が死産ではなかったとすると(※)集団内での子殺しとしては46例目の報告になりますが、出産とその直後の新生児の強奪・共食いをつづけて観察したものとしては世界初の観察事例になりました。

(※注:この観察は生まれた瞬間に新生児が奪われたため、娩出された新生児の生死を確認できなかった。新生児が死産だった場合には「ダーウィンによる子殺し」ではないことになる。)

出産直後の新生児を奪ったオスのチンパンジー(ダーウィン)。このあとしばらくしてこの新生児を食べた。

チンパンジーの「産休」

デボタの出産時の状況がまったくの無防備だったことから、野生チンパンジーのメスが出産前後にどのような行動をとる傾向があるのかを調べる目的で、「産休」について調べてみました。マハレで蓄積されてきた21年分の長期データを用いて調べたところ、野生チンパンジーのメスが出産前後に不在になる期間(「産休」期間)は、同時期の他のメスの不在期間と比べて長い傾向があることがわかりました。

出産前後の不在期間(「産休」)と他のメスの不在期間の比較。マハレでは集団の集合状態に明確な季節性(集合季/分散季)があり、集合季には多くの個体が毎日のように観察されるため不在期間が短くなり、分散季には逆に不在期間が長くなる傾向がある。この季節性を加味しても、「産休」による不在期間は他のメスの不在期間よりも長い傾向がみられた。

このことは、マハレの野生チンパンジーのメスは、出産前後に「産休」をとる傾向があることを示しています。デボタがなぜ「産休」をとらず「公衆の面前で」出産したのかはわかりませんが、少なくとも「産休」をとっていれば出産直後に新生児を奪われるリスクはなかったと考えられるため、今回の事例では「産休の欠如」が新生児を奪われる要因となった可能性があります。

推定年齢や集団への移入歴からみるとデボタは初産だったと考えられますが、初産の場合には出産についての十分な経験や知識がなく、いつどのように「産休」をとるのかを判断できなかった可能性もあります。今後さらに初産と経産のメスで出産時にとる行動に違いがあるのか、初産と経産で子殺しのリスクに違いが見られるかどうかなど、引き続き調べていきたいと思います。

まとめ

ダーウィンが新生児をすべて食べてしまい、ダーウィンの糞からも残存物を発見できなかったため、新生児のDNAサンプルを採取できず、ダーウィンがこの新生児の父親であるかどうかを判別することはできませんでした。そのため、子殺しについて提唱されてきたどの仮説が今回の事例にあてはまるのかについては明らかにできませんでした。しかし、メスの「産休」が出産直後の子殺しのリスクを下げる可能性を示すことができたことは、子殺しに対するメスの対抗戦略の進化という問題に新たな手がかりをもたらすと考えています。

参考文献
Nishie H, Nakamura M. 2017. A newborn infant chimpanzee snatched and cannibalized immediately after birth: Implications for “maternity leave” in wild chimpanzee. American Journal of Physical Anthropology (Online), DOI: 10.1002/ajpa.23327

この記事を書いた人

西江仁徳
京都大学・日本学術振興会特別研究員(RPD)。京都大学大学院理学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(理学)。2002年からタンザニア・マハレの野生チンパンジーの観察を継続中。専門はヒトを含む霊長類の文化とコミュニケーション。今回の論文は2015年に生まれた息子の育休中に育児の合間をぬって初稿を書いた。チンパンジーの「産休」を分析しようと思い立ったのも、そうした我が身の置かれた状況がどこかで影響していたのかもしれない。