π電子と芳香族性・反芳香族性

πといえば円周率のことでしょうが、化学者はπ電子を連想するでしょう。多くの二重結合をもつ化合物はπ電子化合物と呼ばれます。二重結合は、σ結合とπ結合でできており、それぞれの結合を形成する電子はσ電子やπ電子と呼ばれます。σ電子が2つの原子をしっかりつなぎ止めているのに対して、π電子は2つの原子のあいだにゆるく存在し、周りからの影響を受けやすい性質があります。π電子化合物がきれいな色をもっていたり半導体特性を示したりするのは、π電子をもつためです。π電子は機能の宝庫ということができます。π電子化合物は色素として重要で古くから研究されてきました。さらに、有機半導体材料、有機EL、有機太陽電池など最先端分野でも非常に重要な物質となっています。

π電子化合物のなかでもベンゼンに代表される芳香族化合物は安定な物質であり、プラスチックや医薬品、液晶、電子材料など身のまわりで広く利用されています。芳香族化合物はいくつかの二重結合がつながった環状構造をもっており、含まれるπ電子の数が4n+2個(n=0, 1, 2, 3, …)であるという特徴がありあります。では、π電子の数が4n個(n=1, 2, 3, …)の場合はどうなるのかというと、逆に不安定になります。このような分子は反芳香族化合物と呼ばれます。これまであまり研究されていませんでしたが、逆に未知の性質が潜んでいる可能性もあります。最近では、優れた酸化還元特性や電荷輸送特性をもつことが明らかにされ、注目を集めつつあります。反芳香族化合物のネックになるのは、その不安定性です。空気中ですぐに壊れるような化合物では扱いにくいし、応用への可能性が減ってしまいます。

お椀型構造をもつπ電子化合物

通常、π電子化合物は平面構造をしています。しかし、最近ではお椀型、らせん型、ベルト型など曲面構造をもつπ電子化合物が合成され、おもしろい構造をもつため注目されています。曲面π電子化合物は固体中に並べた場合に平面化合物とは異なる配列をとると考えられ、材料としての性能が向上したり、新たな物性が発現したりすると期待されています。特に、お椀型化合物は凹面と凸面という2つの異なる面をもちます。このため、まるでお椀を重ねるかのように、方向性のある積層構造を形成しやすいことが知られています。代表的なお椀型分子としては、コラニュレンやスマネンが知られていました。これらはどちらも芳香族化合物です。一方、お椀型の反芳香族化合物は知られていませんでした。

安定な反芳香族化合物の発見

反芳香族化合物は一般に不安定です。ところが私たちは意図せず安定な反芳香族化合物であるノルコロールを合成することに成功しました。その経緯については佐藤健太郎さんの有機化学美術館・分館「ノルコロール〜できるはずのなかった化合物」を見てください。このノルコロールですが、対称性の高い非常に美しい構造をしており、私の好きな分子のひとつです。

安定な反芳香族化合物であるノルコロールを手にして、私たちは反芳香族化合物の性質を明らかにすべく研究をおこなっています。最近注目しているのが反芳香族化合物を重ねるとどうなるかという研究です。芳香族化合物を重ねようとすると、π電子どうしの反発がおきてしまいます。しかし、反芳香族化合物は重なりやすい性質があることがわかってきました。さらに、不思議なことに反芳香族化合物を重ねると芳香族としての性質を示して安定化することも明らかになりました。

ノルコロールには大きな制約がありました。ノルコロールは中心にニッケルを含んでいますが、これ以外の金属では合成できません。ニッケルの代わりにいろんな金属を入れられたら、その構造や物性を制御できます。そのため、ニッケル以外のノルコロールを合成することがテーマとなりました。ノルコロールはニッケルを鋳型のようにして使うことによって合成されます。つまり、ニッケルの上に2つのユニットを載せておき、分子内カップリング反応で連結することによってノルコロールが得られます。では、ニッケル以外の金属を鋳型にすれば他の金属をもつノルコロールも簡単に合成できそうです。しかし、そうは問屋が卸しません。反応に使う試薬のため鋳型の金属が追い出されてしまいまったくうまくいきません。さまざまな試行錯誤を行い、銅を鋳型にして銅を使った試薬を用いてカップリングさせるという方法で銅をもつノルコロールを合成することができました。最初のノルコロールができてから4年後のことです。

銅をもつノルコロールが合成できて大きなボーナスがありました。ニッケルをもつノルコロールからニッケルを取り外すことはできません。一方、銅は外すことができ、真ん中に穴が空いたような金属をもたないノルコロールが得られました。この穴にいろいろな金属をはめ込むことができるようになりました。

ノルコロールにどんな金属をはめ込もうかと思案していたときに、大きな金属を入れたらどうなるのかと考えました。銅を取り除いてできた穴は比較的小さいので、ここに大きな金属を無理矢理入れたら、平面が曲がってお椀型になるのではないか? という非常に安易な発想です。しかし、実際にやってみると、優美な曲面構造が誘起されお椀型構造をもつ反芳香族化合物が合成できました。また、お椀型ノルコロールは、曲面構造に変形しても非常に強い反芳香族性を保っていることがさまざまな測定から明らかになりました。さらに、お椀型構造の表面と裏面で異なる物性をもつこともわかりました。

まとめ

お椀型反芳香族化合物ができたからって何の役に立つのでしょうか? 実は私たちにもよくわかりません。しかし、これまではその性質や有用性を調べたくても、お椀型反芳香族化合物を合成する方法がありませんでした。今回の研究でそれを手にすることができたので、お椀型反芳香族化合物ならではの性質を明らかにしていきたいと思います。お椀型分子の特徴である異方性のある積層構造と反芳香族性が関連するような研究ができたらいいかなと考え中です。

参考文献
“Gram-Scale Synthesis of Nickel(II) Norcorrole: The Smallest Antiaromatic Porphyrinoid”, Ito, T.; Hayashi, Y.; Shimizu, S.; Shin, J.-Y.; Kobayashi, N.; Shinokubo, H. Angew. Chem. Int. Ed. 2012, 51, 8542.
“Stacked Antiaromatic Porphyrins”, Nozawa, R.; Tanaka, H.; Cha, W.-Y.; Hong, Y.; Hisaki, I.; Shimizu, S.; Shin, J.-Y.; Kowalczyk, T.; Irle, S.; Kim, D.; Shinokubo H. Nat. Commun. 2016, 7, 13620.
“Shaping Antiaromatic π-System by Metallation: Synthesis of a Bowl-Shaped Antiaromatic Pd-Norcorrole”, Yonezawa, T.; Shafie, S. A.; Hiroto, S.; Shinokubo H. Angew. Chem. Int. Ed. 2017, 56, in press. DOI: 10.1002/anie.201706134

この記事を書いた人

忍久保洋
忍久保洋

名古屋大学大学院工学研究科有機・高分子化学専攻 教授

京都に生まれ、京都大学で博士号を取得。京都大学大学院工学研究科助手、京都大学大学院理学研究科准教授をへて2008年より現職。教育テレビを見て化学実験の面白さに目覚め、化学者を志す。「美しい化合物には優れた機能が宿る」という信念のもと、見た目に美しい構造をもつπ電子化合物の合成とその物性・機能の探求を行っています。


HP: http://www.apchem.nagoya-u.ac.jp/hshino/top.html