海洋酸性化とは

人為的に放出された二酸化炭素(CO2)の増加によって引き起こされる地球温暖化は、陸・海のさまざまな生態系に深刻な影響を及ぼすことが懸念されています。地球的規模の環境問題として、地球温暖化と並んで近年注目を集めているのが、海水中のCO2濃度が増加して、海水中のpHが低下してしまう、「海洋酸性化」と呼ばれる現象です。海洋酸性化が進むと、海水中の炭酸カルシウム飽和度が減少するため、貝類やサンゴのような、炭酸カルシウム骨格を形成する石灰化生物の骨格形成が困難になることが予想されています。

特にサンゴは、高い生物多様性を誇るサンゴ礁生態系の基盤形成の中心を担う生物であるため、サンゴが減少してしまうと、他の多くの周辺生物にも悪影響が出てしまう可能性があります。しかし、海洋酸性化による骨格形成の阻害が、海に生きる多種多様な石灰化生物に実際に起きるのかどうかについては、当初不明な点が多く残されていました。弘前大学の野尻幸宏教授を中心とした、日本の研究グループがこの問題に本格的に取り組み始めた2008年頃は、海洋酸性化のサンゴへの影響評価に関する知見もかなり限られた状況でした。

美しいサンゴ礁生態系の景観

精密CO2制御装置による生物評価

海洋酸性化の生物への影響を調べる方法のひとつとしては、CO2濃度を調整した海水中で石灰化生物を飼育し、骨格の成長率などを調べるアプローチがあります。しかし、飼育実験の環境下で海水中のCO2濃度をできる限り均一にして、目標の値に維持するのは相当の工夫が必要で、当時の技術では、海水中のCO2濃度を正確に制御することは容易ではありませんでした。

こうした問題点を踏まえ、野尻幸宏教授らは、細長いCO2吸収塔を用いることで、海水中へのCO2の溶解をできる限り均一になるように工夫しました。また、海水中のCO2濃度をこまめに測定しながら、随時CO2の添加量をコンピュータで制御することで、海水中のCO2濃度を正確に維持できる、精密CO2制御装置を開発することに成功しました。

この装置のおかげで、近未来を想定した海洋酸性化の状況を正確に再現し、現実的な範囲内での生物影響評価が実施可能となりました。井口もこの装置を中心とした海洋酸性化研究プロジェクトに参画し、琉球大学・瀬底研究施設での飼育実験のサポートに関わるようになりました。精密CO2制御装置装置によって作成された酸性化海水を用いることで、我々の研究グループは、サンゴや有孔虫、石灰藻類などの、サンゴ礁周辺に見られる石灰化生物の影響評価を徹底的に行いました。その結果、海洋酸性化が今後進行すると、サンゴ礁の石灰化生物は実際に悪影響を受ける可能性が高いことが、次第に浮き彫りとなってきました。これらの研究成果はさまざまな国際学術誌に掲載され、引用回数も多く、世界的にも注目されるようになりました。

琉球大学・瀬底研究施設に設置された精密CO2制御装置

サンゴ種間・種内に見られる海洋酸性化に対する生物応答の多様性

海洋酸性化によるサンゴ礁の石灰化生物への影響が明らかとなる一方で、研究を重ねていくにつれて、サンゴの酸性化海水に対する応答には、さまざまなバリエーションが見られることも次第に明らかとなってきました。過去の研究においては、サンゴ白化現象を引き起こすとされる高海水温に対するサンゴの感受性は、白化しやすいサンゴ種もいれば、ほとんど白化しない種もいるなど、種間で顕著な違いが見られることが既に知られていました。

琉球大学・瀬底研究施設周辺で見られるさまざまなサンゴ種。一番下の列の塊状のサンゴ種は白化しにくいことが知られている

海洋酸性化に関しても、骨格形成が阻害されやすい種と、そうではない種が自然界には普通に存在することが、精密CO2制御装置を用いた飼育実験を重ねるうちに明らかとなってきました。さらに興味深いことに、同種内においても、酸性化海水への感受性には個体差があることも、次第に明らかとなってきました。そのため、今後海洋酸性化が進行すると、サンゴ種間・種内での感受性の違いにより、サンゴ群集・個体群の変化は複雑な挙動を示すことが予想されます。

精密CO2制御装置を用いたサンゴ飼育実験の様子

サンゴが骨を作るメカニズム解明の必要性

海洋酸性化への進行に伴い、サンゴ礁生態系で生じるであろう、サンゴ群集・個体群の変化を予測することは容易ではありません。琉球列島周辺だけでも、400種近いサンゴが生息するとされており、すべての種で飼育実験を行って結果を重ねるには、途方もない時間と労力がかかります。そのため、サンゴが海洋酸性化の影響をどのように受けるのかについて、その詳細なメカニズムを明らかにすることができれば、手間と時間がかかる飼育実験を行わなくても、サンゴ群集・個体群における海洋酸性化の影響評価を迅速に進められる道が拓けることが期待されます。しかし、サンゴがその炭酸カルシウム骨格をどのように形成するのかについては未解明な点が多く、海洋酸性化による海水中のpHの低下が、骨格形成にどのように影響を及ぼすのかについても、皆無に近い状況でした。

サンゴは夏の満月周辺前後に、その多くが一斉産卵をすることが知られています。この一斉産卵の機会に、我々の研究グループは、サンゴの配偶子を採取して育てたプラヌラ幼生を用いることで、石灰化を始めた直後のサンゴの状態(サンゴ初期ポリプ)での、海洋酸性化の影響評価を可能にする実験系を作り上げました。サンゴ初期ポリプを実験に用いることで、体内に共生する藻類の影響を排除したサンゴ宿主の評価が可能となります。

さらに大野は、高解像度顕微鏡を用いた観察技術を応用し、サンゴ初期ポリプで石灰化母液と呼ばれる場所のpH変化を捉えることを試みました。その結果、石灰化母液のpHを低下させると、その数分後には、サンゴが能動的に石灰化母液のpHを上昇させることを突き止めました。この現象は、サンゴが周辺海水のpH変化を感知して、石灰化母液内のpHをコントロールしながら骨格形成を行えることを示唆しており、詳しいメカニズムの解明が期待されています。

ミドリイシ属サンゴの一斉産卵の様子
実験で用いた共焦点顕微鏡システム

今後の展望として

多くの謎が残されていた、海洋酸性化がサンゴ礁生態系に及ぼす影響に関しては、上記の実験系の確立によって、次第にその概要が明らかとなってきました。しかし海洋酸性化に対するサンゴ種間・種内の感受性の違いを明らかにするための研究は、ようやく始まったばかりです。上記で紹介した研究手法を用いれば、海洋酸性化だけでなく、地球温暖化や富栄養化などの環境変化に対する種間・種内の応答の差異と、そのメカニズムの解明が可能になることが期待されます。現在も関連成果の論文投稿を進めており、近いうちにまた、この場をお借りして紹介できればと思います。

参考文献
1. Iguchi, A., Kumagai, N.H., Nakamura, T., Suzuki, A., Sakai, K. and Nojiri, Y., 2014. Responses of calcification of massive and encrusting corals to past, present, and near-future ocean carbon dioxide concentrations. Marine Pollution Bulletin, 89, pp.348-355.

2. Sekizawa, A., Uechi, H., Iguchi, A., Nakamura, T., Kumagai, N.H., Suzuki, A., Sakai, K. and Nojiri, Y., 2017. Intraspecific variations in responses to ocean acidification in two branching coral species. Marine Pollution Bulletin, 122, pp.282-287.

3. Ohno, Y., Iguchi, A., Shinzato, C., Inoue, M., Suzuki, A., Sakai, K., and Nakamura, T., 2017. An aposymbiotic primary coral polyp counteracts acidification by active pH regulation. Scientific Reports, 7, 40324.

この記事を書いた人

井口 亮,大野良和
井口 亮,大野良和
井口 亮 (写真左)
沖縄工業高等専門学校・助教。2008年、オーストラリアのJames Cook Universityにて、博士号を取得。琉球大学熱帯生物圏研究センター研究員、東京大学大気海洋研究所・学術振興会特別研究員PDを経て、2013年より現職。

大野良和 (写真右)
沖縄科学技術大学院大学・学術振興会特別研究員PD。主な専門は環境生理学。2017年、琉球大学理工学研究科にて、博士号を取得。2017年より現職。