2つの顔をもつ分子って?

「ヤヌス」という神様をご存知でしょうか。ローマ神話の出入り口と扉の神、すべての行動の初めを司る神なのだそうで、前後に2つの顔をもつのが特徴です。いきなり「神」と言われても少々とっつきにくいかもしれませんが、表と裏で2つの顔(性質)をもつものというのは、私たちの身のまわりでもしばしば見かけます。たとえば、「実家のオカンが電話出るときの声のトーンの変貌ぶり」——これはまさしく“ヤヌス”的振る舞いだと言えます。

冗談はさておき、このヤヌスの神のように、表と裏で異なった性質をもつ物質を創り出そうという挑戦が、私たちの肉眼では見えないとても小さな世界、ナノメートル(0.000000001メートル)オーダーの分子の世界で行われています。これまでに合成されているヤヌス型分子にはさまざまなものがありますが、ここでは平面型のπ共役化合物についてご紹介します。その他のヤヌス型分子に関しては、サイエンスライターの佐藤健太郎さんが有機化学美術館・分館でご紹介しているコラムをご参照ください。

π共役化合物は、ディスプレイ材料、電極材料、繊維、香料、医薬品、農薬などなど、ありとあらゆるところに利用されていて、多種多様な機能発現を担うキーマテリアルとなっています。このようなさまざまな機能は、有機化合物がもつ柔軟性に富んだ分子デザイン性が可能にしていることです。

ところが、π共役化合物にも苦手なことがあります。π共役分子の代表格であるベンゼンを例に挙げると、ベンゼンは六角形の平面型分子で、平面のどちら側から見ても幾何学的・電子的な偏り(異方性)がないため、表面・裏面を区別することができません。また、ベンゼンは炭素骨格のまわりの水素原子が他の元素(赤/青の元素)と置き換わる反応性を示すため、これらの元素の電子的な偏りによって、平面と並行方向の異方性(面内異方性)をもつことが一般的です。ヤヌスのように平面の表と裏で二面性をもたせるためには、炭素骨格に対して垂直方向に電子構造の偏りを誘起する元素を導入する必要がありますが、そのような手法はこれまで限られてきました。このような背景から、「新たなヤヌス型分子を如何に創り出すか」が合成化学者にとって挑戦的な課題となっていました。

ヤヌス型分子って何がいいの?

π共役化合物がいろいろな材料として利用されていることは先に述べたとおりですが、では、π共役化合物に二面性をもたせると何が良いのでしょうか。これまでに合成されている代表的なヤヌス型分子に、チタニルフタロシアニンという化合物があります。分子の骨格平面から垂直に酸素原子が突き出ることで、この分子の二面性が発現しています。このような分子を金属基板の上に整列させると、分子自身がもつ電子的な偏り(双極子モーメント)によって金属表面上に電界が生じます。この電界は、金属が固有にもつ仕事関数(物質表面から1個の電子を取り出すのに必要な最小エネルギー)を変化させ、電位の観点ではあたかも他の金属のように振舞うようになります。ちょっとした表面処理で劇的に性質を変え、「授業参観日のオカンの化粧」的な変貌を遂げます。つまり、ヤヌス型π共役化合物は、高価な金属が固有でもつ仕事関数を、より安価な金属で実現できたり、不安定な金属を安定な金属で置き換えられたりすることを可能にするキーマテリアルなのです。

ヤヌス型分子を創る:分子デザインと合成戦略

ヤヌス型分子を作るには、分子の平面骨格に直交した垂直方向に何らかの異方性を導入する必要があります。今回の研究では、異方性ユニットとしてホスフィンスルフィド(R3P=S; Rは炭素置換基)に着目し、これをスマネンと呼ばれるπ共役骨格に3つ導入した「トリホスファスマネントリスルフィド」という(早口言葉のような名前の)分子を設計しました。この分子では、分子面上部に電子豊富な3つの硫黄原子(S)が位置し、分子面下部に比較的電子不足な3つのフェニル基(Ph)が位置することになります。この分子平面に垂直な電子的偏りが3点で加算されることで、高い面外異方性が発現すると期待しました。

では、設計した分子を如何にして合成するのか——合成化学者にとって難所であり、最大の醍醐味でもあります。今回の研究では、私たちが独自に開発した鍵反応「トリフェニレンのヘキサリチオ化」を活用することで、目的分子をワンポットで合成することに成功しました。具体的には、ヘキサエトキシトリフェニレンに過剰量のブチルリチウムを作用させることで、一挙に6箇所リチオ化された中間体(ヘキサリチオ体)を高転換率で調製することができます。この反応中間体にリン試剤および硫黄を段階的に作用させると、簡便に目的分子を得ることができます。

トリホスファスマネントリスルフィドの高い二面性は、π共役骨格に垂直方向の大きな双極子モーメントから伺い知ることが出来ます。理論化学的手法で本分子の双極子モーメントを求めたところ、12.0D(デバイ)と極めて大きく、従来までの代表的なヤヌス型分子であるチタニルフタロシアニンの値(3.73D)の3倍以上であることが明らかとなりました。また、表・裏の各面の電子状態を見てみると、硫黄原子が位置している面(表面)は電子豊富な状態(図中の赤色が電子豊富を意味する)である一方、フェニル基側(裏面)は電子不足な状態(図中の青色)をとり、表裏面で異なる電子状態をもつことがわかりました。この特異な二面性は、本分子の金属表面への付着の仕方にも現れます。たとえば、金(111)面にこのヤヌス型分子を塗付すると、電子豊富面にある硫黄原子と金原子との相互作用が実験的に観測されます。この相互作用による吸着エネルギーは、分子をひっくり返した裏面と金を相互作用させた吸着状態より93.5kcal mol–1大きく、分子の二面性を反映した結果であると言えます。

新しい「へんてこ分子」の行く末

今回ご紹介したヤヌス型分子の研究結果は、2017年4月7日にアメリカ化学会の雑誌Journal of the American Chemical Society誌(インパクトファクター: 13.038)に掲載されました。これまでの検討で、高い面外異方性をもつヤヌス型分子の新たな構築手法と、その分子がもつ二面性について明らかにしました。

今、私たちの研究グループでは、このヤヌス型分子と金属との界面で発現する新たな現象について日夜研究を続けています。前半の内容で触れた「金属の仕事関数制御」もそのフォーカスのうちのひとつです。しかし、このような新たな枠組みのへんてこ化合物を生み出す意義は、もっと別のところにもあると考えています。これまでに存在しなかったモノを創り出すことは、科学者でさえ想像し得ない、ヒトの発想を越えた新しい現象と出会える可能性を飛躍的に高めることに繋がるのだと思います。そして私たちは、その一期一会に出会うための好奇心と、見逃さない洞察力をもって研究に取り組んでいきます。

参考文献

“Triphosphasumanene Trisulfides: High Out-of-Plane Anisotropy and Janus-Type π-Surfaces”
Shunsuke Furukawa, Yuki Suda, Junji Kobayashi, Takayuki Kawashima, Tomofumi Tada, Shintaro Fujii, Manabu Kibuchi, and Masaichi Saito, J. Am. Chem. Soc. 2017, 139, 5787–5792.
DOI: 10.1021/jacs.6b12119

この記事を書いた人

古川俊輔
古川俊輔
埼玉大学大学院理工学研究科 助教。2010年、東京大学大学院理学系研究科化学専攻博士課程修了。博士(理学)。合成化学と有機エレクトロニクスの2つのバックグラウンドから、これまでの常識を覆す「へんてこ化合物」の創造に日夜奮闘中。化学を初めたきっかけは、ガソリンの臭いが好きだったこと。高校のテストで物理より化学ができたこと(物理:4点/100点、化学:17点/100点)。
埼玉大学大学院理工学研究科 基礎化学コース 研究室ホームページ