嫌な記憶 – 過ぎたるは猶及ばざるが如し

日常生活において、不快感や恐怖をもたらす出来事は私たちにとってストレスとなりますが、このような嫌な体験を記憶することによって、私たちは事前に危険を予想し、身を守ることができます。しかし、この恐怖記憶は私たちにとって常にプラスに働くわけではありません。強い恐怖体験に関連した過度の恐怖記憶はそれ自体が強いストレスとなるばかりでなく、不安障害などの精神疾患の発症の一因となる場合があります。さらにそのような疾患に罹ってしまうと、ストレスに過敏になったり、新たに別の強い恐怖記憶が形成されやすくなってしまうこともあります。

恐怖記憶が私たちにとって有益に働くためには、実際の体験に見合った適切な強さの恐怖記憶を形成する必要があります。言い換えると、「怖い or 怖くない」ではなく、「何が、どのくらい怖いのか」を学習する必要があるのです。このためには、恐怖を感じるための脳の働きに加えて、過剰な恐怖を抑制するための脳の働きも必要であると仮定されてきました。しかし、そのメカニズムはほとんど明らかになっていませんでした。そこで私たちは、恐怖記憶の中枢である扁桃体とその出力先である中脳水道周囲灰白質、さらにその出力先である吻側(ふんそく)延髄腹内側部という一連の脳領域の役割に着目し、実験動物モデルのラットを用いてそのメカニズムの解明を試みました。

少しだけ怖いものは何度起こっても少しだけ怖いまま

ラットに何の反応も誘発しない音を提示した後に、恐怖体験として弱い電気ショックを与える訓練を行うと、ラットは音によって電気ショックの到来を予測することを学習し、音に対してすくみ反応という恐怖反応を示すようになります(図1A)。

この「恐怖条件づけ」では、音に対する恐怖反応の強さは訓練を繰り返すたびに増加します。しかし、訓練を十分に行うと恐怖反応は恐怖体験の強さに応じた一定の値「漸近(ぜんきん)値」で頭打ちになり、それ以上訓練しても恐怖反応は増加しないことが知られています。この「恐怖学習の漸近現象」は、魚類、ラット、ヒトといった多くの生物種で認められる普遍的な現象です(図1B)。

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図1

私たちは、この恐怖学習の漸近現象を、「恐怖体験の事前予測による過剰な恐怖学習の抑制」を調べるのに適したモデルであると考え、この現象を詳細に観察しました(図1C)。微弱な電気ショックを用いてラットに対して恐怖条件づけを十分に訓練した後(訓練1)、同じ音と電気ショックで訓練をさらに行っても(訓練2、過剰訓練)、音のみを提示した時に起こる恐怖反応の強さは過剰訓練の前後で変化しないことが確認されました(テスト1、2)。この結果は、最初の訓練の後に恐怖学習が漸近していること、その後の過剰訓練が恐怖学習の促進効果を持たないことを示しています。また、恐怖反応をさらに上昇させるためには、より強い電気ショックを使った過剰訓練が必要であることがわかりました。

恐怖中枢の働きを抑制する脳活動の発見

続いて私たちは、恐怖学習が一定のレベルで頭打ちになったとき、脳内でどのような活動が起こっているか調べました。恐怖記憶の形成には、恐怖体験が恐怖記憶の中枢である扁桃体の外側核という脳領域を活性化させることが必要です。そこで、ラットに恐怖条件づけを十分に行った後に、「予測なし条件」(電気ショック単独提示)および「予測あり条件」(音+電気ショック提示)を行った際の扁桃体外側核の活動を電気生理学的に測定しました(図2A)。すると、扁桃体外側核の神経細胞の中には、予測なし条件よりも予測あり条件の場合に、電気ショックに対する応答が減少する細胞があることがわかりました(図2B)。

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図2

私たちは、「光遺伝学」と呼ばれる最先端の神経操作技術を用いて、脳機能メカニズムの研究を行いました。まずウイルスベクターを用いて、扁桃体の主要な出力領域である中心核の神経細胞とその軸索末端に、光感受性の抑制性ポンプであるアーキロドプシンンを発現させました。次に中心核の出力先のひとつである中脳水道周囲灰白質にレーザー照射を行うことで、中心核からそこへ伸びる軸索末端を特異的に抑制しました(図2A)。

この方法を用いて、電気ショックの到来を予測する音の提示中に扁桃体中心核と中脳水道周囲灰白質を結ぶ神経回路を不活性化させたところ、予測あり条件においても、予測なし条件と同程度の強さの電気ショックに対する神経応答が認められました(図2B)。このことは、恐怖体験の予測によって「扁桃体中心核→中脳水道周囲灰白質」回路が働き、恐怖体験による扁桃体外側核の活性化を抑制していることを示しています。

過剰な恐怖学習にブレーキをかける「扁桃体中心核→中脳水道周囲灰白質→吻側延髄腹内側部」回路

次に私たちは、「扁桃体中心核→中脳水道周囲灰白質」回路が恐怖学習というラットの行動を実際に制御しているかを調べるため、通常は恐怖学習を引き起こさない恐怖条件づけの過剰訓練中に、光遺伝学を使ってこの回路を不活性化しました(図2C)。実験の結果、過剰訓練の音提示の後に回路を抑制したオフセット統制群では恐怖学習が頭打ちになっていましたが、音提示中に回路を抑制した群(回路抑制群)では、電気ショックの強さを変えていないにも関わらず、過剰訓練の前後でラットの音に対する恐怖反応が増加することがわかりました(図2D)。これは、回路の不活性化によって恐怖記憶が過剰に形成されること、つまり、通常は恐怖の予測によりこの回路が働くことによって恐怖学習の漸近が起こることを示しています。また、この回路の抑制によって起こる過剰な恐怖学習は、扁桃体外側核を薬理学的に抑制すると起こらなくなることから、上述した電気生理学的実験で示された、扁桃体中心核→中脳水道周囲灰白質による扁桃体外側核の活動抑制(図2B)が恐怖学習という行動の制御にも重要であることを示唆しています。

次に私たちは、光感受性の興奮性イオンチャンネルであるチャネルロドプシンを扁桃体外側核に発現させました。そして、通常は電気ショックに対する外側核の神経応答が低下している過剰訓練中の、電気ショックの瞬間に扁桃体外側核を人工的に活性化しました。すると、扁桃体中心核→中脳水道周囲灰白質回路を操作しなくても過剰な恐怖学習が引き起こされることがわかりました。以上、一連の結果は、恐怖体験の予測によって「扁桃体中心核→中脳水道周囲灰白質」回路が働き、恐怖体験による扁桃体外側核の活性化を防ぐことによって、実際に過剰な恐怖学習が抑制されていることを示しています。

では、「扁桃体中心核→中脳水道周囲灰白質」回路の下流にはどのような脳領域が活動しているのでしょうか?私たちは、脊髄における痛み情報の制御に関与している吻側延髄腹内側部の役割に着目してさらに研究を進めたところ、①「扁桃体中心核→中脳水道周囲灰白質」回路は、中脳水道周囲灰白質領域内の、吻側延髄腹内側部へ投射している神経細胞を活性化させていること、②「中脳水道周囲灰白質回路→吻側延髄腹内側部」回路抑制は「扁桃体中心核→中脳水道周囲灰白質」回路の抑制と同様に、過剰な恐怖学習の引き金となることも見出しました(図2A、C)。

恐怖に対する脳内ブレーキメカニズムが私たちの生活に果たす役割

本研究の結果は、恐怖体験を事前に予測することで活性化される「扁桃体中心核→中脳水道周囲灰白質→吻側延髄腹内側部」回路という一連の脳領域の活動が(図3青矢印)、後の恐怖体験が引き起こす神経信号を抑制することで(図3赤矢印)、過剰な恐怖記憶の形成を防いでいることを示しています。

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図3

恐怖記憶は危険の予知・回避に必要な能力です。しかし、私たちの実際の日常生活においては、事前に予測されたストレスを回避できない場合も多々あります。私たちの発見した“恐怖に対する脳内ブレーキメカニズム”は、現代社会を生きるためのストレスコントロールに重要であると考えられます。また、多くの研究において、ストレスへの鋭敏化や過剰な恐怖記憶の形成といった症状に象徴される不安障害などの精神疾患は、「恐怖を感じるメカニズムの異常」として研究されてきました。私たちの結果は、これらの精神疾患が「恐怖を抑制するメカニズムの異常でもある」、という可能性を示唆しています。このように、私たちは今回の研究成果が不安障害などの疾患に関するより深い理解と治療法の発展にも貢献すると考えています。

参考文献

A feedback neural circuit for calibrating aversive memory strength. Takaaki Ozawa, Edgar A. Ycu, Ashwani Kumar, Li-Feng Yeh, Touqeer Ahmed, Jenny Koivumaa, Joshua P. Johansen., Nature Neuroscience, DOI: 10.1038/nn.4439

この記事を書いた人

小澤貴明
小澤貴明

2011年に筑波大学大学院人間総合科学研究科修了、同年より国立研究開発法人理化学研究所脳科学総合研究センター研究員を経て,2016年よりスイス・ジュネーブ大学医学部基礎神経科学科研究員。感情の変化(快・不快)を伴う経験が、後の私たちの行動をどのように変化させるか、というテーマに関心を持ってその脳内メカニズムの研究に取り組んでいます。