新奇体験が記憶力を増強させる – 記憶保持を司る分子メカニズムの解明を目指して
「思いがけない出来事」が記憶の保持を強化する
「晩ごはんにどこで何を食べたか」といったささいな日常の記憶は、「海馬」と呼ばれる脳の領域に形成され、その多くは1日のあいだに忘れられることが知られています。一方で、「晩ごはんに行く途中に学生時代の旧友に偶然出会った」といった新奇で思いがけない出来事を直前あるいは直後にともなう場合、ささいな日常の記憶が長期にわたり保持される現象が知られています。その脳内のメカニズムを調べるため、最近、新奇な環境を体験することによって、ささいな記憶が長期にわたり保持される動物をモデルとした行動試験が開発されました。薬を脳内に投与する薬理学的な実験から、この新奇体験による記憶の保持の強化には、海馬における神経修飾物質「ドーパミン」が重要であることが明らかにされました。しかし、どの脳の領域が新奇体験により海馬にドーパミンを放出し、記憶の保持の増強を担っているかは不明でした。
私たちの研究グループは、モデル動物であるマウスを使って、日常の記憶を調べる行動試験として「日常記憶課題」を開発しました。そして、海馬にドーパミンを放出する可能性が示唆されている「腹側被蓋野」と「青斑核」と呼ばれる脳の領域に着目して、新奇体験による記憶の保持の強化を担う脳の領域の同定を試みました。
マウスを用いた日常記憶課題
まず、マウスを使って、新奇体験が日常の記憶を向上させる効果を調べる日常記憶課題を確立しました。この日常記憶課題では、イベントアリーナ装置とよばれるオープンフィールド内で、マウスに報酬の餌が底に隠されている砂つぼの場所を記憶させます(下図 a, b)。報酬を含む砂つぼの場所は毎日変わるため、マウスはその日その日の特定の砂つぼの場所を記憶する必要があります。報酬量の少ない「弱い訓練」を行ったマウスは、24時間のちには報酬の砂つぼの場所を忘れていました。一方、弱い訓練の30分後に、新奇な素材を床に敷きつめた新奇体験ボックス(下図 c)を5分間にわたり探索させると、報酬の砂つぼの場所の記憶は24時間のちにも保持されていました(下図 d, e)。薬理学的な実験から、この新奇体験による日常記憶の保持の強化にも、海馬の神経細胞に発現しているドーパミン受容体の活性化が重要であることがわかりました。
青斑核の神経細胞が活性化
次に、腹側被蓋野あるいは青斑核の神経細胞が、なじみのある環境あるいは新奇の環境を体験しているあいだ、どのような活動のパターンを示すかを調べました。その結果、マウスが新奇環境を体験しているあいだ、腹側被蓋野と青斑核の神経細胞の活動は上昇しました。マウスを飼育しているホームケージで記録した神経活動を用いて標準化することで、2つの脳領域を比較したところ、新奇体験による神経活動の上昇の度合いは、青斑核のほうが腹側被蓋野よりも大きいことがわかりました。さらに、新奇体験に対する青斑核の応答は時間の経過とともに減少する「馴化」がみられました。以上のことから、青斑核の神経細胞は新奇体験に対しとくに感受性が高いことがわかりました。
光遺伝学的な活性化による記憶の保持の強化
青斑核の神経細胞が新奇体験をすることによって活性化することがわかったので、マウスが新奇な環境を体験する代わりに、青斑核の神経細胞を人工的に活性化させても記憶の増強効果がみられるかどうかを調べました。青斑核の神経細胞を人工的に活性化させるために、「光遺伝学」と呼ばれる光で神経細胞の活動を操作する技術を使いました。まず、マウスの青斑核の神経細胞に、ウイルスを使って光感受性イオンチャネルであるチャネルロドプシンを発現させます(下図 a)。その後、マウスの脳に光ファイバーを埋め込みます。この埋め込んだ光ファイバーを介して、チャネルロドプシンを発現している青斑核の神経細胞に光を照射すると、神経細胞は活性化します(下図 b)。
日常記憶課題を使って、マウスに弱い訓練を行い、その30分後に青斑核の神経細胞を5分間にわたり光遺伝学的に活性化しました(下図 c)。その結果、ふだんは数時間で忘れてしまう報酬を含む砂つぼの場所の記憶が24時間のちにも保持されていました(下図 d、青斑核の活性化 )。
一方、弱い訓練の後に、腹側被蓋野の神経細胞を活性化した場合には、24時間後には報酬を含む砂つぼの場所は忘れられていました。さらに薬理学的な実験から、青斑核の光遺伝学的な活性化による記憶の強化には、海馬の神経細胞に発現しているドーパミン受容体が関与していることがわかりました(下図 d、青斑核の活性化 + DA-R阻害薬)。
腹側被蓋野の不活性化は記憶保持に影響しない
最後に、新奇体験の最中に青斑核の神経細胞を不活性化することにより、新奇体験による記憶の保持の強化が消失するかどうか検討しました。日常記憶課題を用いて弱い訓練を行い、薬理学的な手法を用いて新奇体験の最中に青斑核の神経細胞を不活性化したところ、新奇な体験による記憶の増強の効果が消失しました。
一方、新奇体験の最中の腹側被蓋野の神経細胞の不活性化は、新奇な体験による記憶の保持の強化に影響しませんでした。以上の結果から、新奇な体験による記憶の保持の強化には、新奇な体験の際の青斑核の神経細胞の活動が必要であることが強く示唆されました。
記憶保持を司る分子メカニズムの解明に向けて
今回、私たちの研究グループは、新奇な体験による記憶の保持の強化を担う脳の領域の同定を試み、青斑核の神経細胞から海馬へのドーパミンの出力が新奇な体験による記憶の保持の強化に関与することを強く示唆する結果を得ました。その主要な意義のひとつは、青斑核の神経細胞から海馬への入力が新奇な体験の情報を伝達しているという点です。このことから、「海馬-腹側被蓋野ループモデル」というこれまでの有力な仮説とは異なる、新奇体験の情報を伝達する経路の存在が示唆されます(下図 a)。もうひとつは、青斑核の神経細胞の出力としてドーパミンが重要であるという点です。このことから、青斑核の神経細胞がノルアドレナリンを放出して神経活動を修飾するという教科書的な基本概念の修正が必要となってきます(下図 b)。
今回の私たちの研究グループの研究により、日常の記憶が直前あるいは直後の新奇な体験により修飾され、その保持が強化される神経機構の一端が明らかにされました。今後、この分子メカニズムを明らかにすることを通じて、日常の記憶に障害がみられる健忘症を予防または改善する新たな創薬への貢献が期待されます。
参考文献
- Wang, S. H., Redondo, R. L. & Morris, R. G. M.: Relevance of synaptic tagging and capture to the persistence of long-term potentiation and everyday spatial memory. Proc. Natl. Acad. Sci. USA, 107, 19537–19542 (2010)
- Takeuchi, T., Duszkiewicz, A. J. & Morris, R. G. M.: The synaptic plasticity and memory hypothesis: encoding, storage and persistence. Philos. Trans. R. Soc. Lond. B Biol. Sci., 369, 20130288 (2014)
- Lisman, J. E. & Grace, A. A.: The hippocampal-VTA loop: controlling the entry of information into long-term memory. Neuron, 46, 703–713 (2005)
- Smith, C. C. & Greene, R. W.: CNS dopamine transmission mediated by noradrenergic innervation. J. Neurosci., 32, 6072–6080 (2012)
- Takeuchi, T., Duszkiewicz, A. J., Sonneborn, A., Spooner, P. A., Yamasaki, M., Watanabe, M., Smith, C. C., Fernández, G., Deisseroth, K., Greene, R. W. & Morris, R. G. M.: Locus coeruleus and dopaminergic consolidation of everyday memory. Nature, 537, 357–362 (2016)
この記事を書いた人
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2000年に東京大学大学院医学系研究科博士後期課程修了、同年に同助手を経て、2008年より英国Edinburgh大学博士後研究員。研究テーマは、新奇性および知識に依存した迅速な学習の神経機構および分子機構。研究テーマに関しての詳細な日本語のレビューが公開されていますので、私たちの研究に興味をもたれた方は是非、以下の参考文献をご覧ください。
1. 大脳新皮質におけるスキーマに依存的な遺伝子の活性化と並列的な記憶のエンコーディング
2. 新奇な体験による記憶の保持の強化の機構