楔形文字を粘土板に刻んでみた – academistチャレンジャー山本孟さんのワークショップ&講演会レポート(後編)
(前編はこちら)
2016年3月~5月にかけて、京都大学文学部山本孟さんが、academistにて「「愛」は普遍なのか? ヒッタイトの楔形文字から探る!」というプロジェクトに挑戦し、目標金額を達成しました。今回のレポートでは、2016年7月16日に開催された、山本さんによる一般向けのワークショップと講演会の様子をご紹介いたします。後編では、講演会の様子をお届けします。
ヒッタイトのハットゥシャ遺跡
午後からは、講演会が開催されました。ワークショップにも参加された方や弥生博の常連さんをはじめ、今回初めて来館された方も含めて170名もの聴衆を前に、講演会はスタートしました。
講演会の前半は、ヒッタイト王国やヒッタイト語の解読に関する話をしていただきました。
ヒッタイト王国は、紀元前17世紀半ばに成立した、古代アナトリア(現在のトルコ)の王国であったことが知られています。有名な遺跡は、ハットゥシャ遺跡です。ハットゥシャ遺跡は、トルコの首都アンカラから東に約200km、現在の中央アナトリアのボアズキョイ村にあるヒッタイト王国の首都遺跡で、これまでに、30,000個以上の粘土板が出土しているそうです。青く広がる空を背景とした、広大な遺跡の写真に心が踊ります。
未知のことばの解読 パンは「食べる」もの
ヒッタイト語は1905年、チェコの言語学者フロズニーによって解読が成功したそうです。楔形文字は、ヒッタイト語をはじめ、シュメール語やアッカド語の表記にも用いられたことが知られていますが、当時、ヒッタイト語の解読は進んでいませんでした。
以下の例文が音節文字を表すヒッタイト語の解読となった文章、「あなたたちはパンを食べ、水を飲む」です。
「NINDA」だけは、「パン」を意味するシュメール系の表意文字として知られていました。「パン」の単語があるということは、「パン」を「食べる」という動詞が来るはずだと推定したそうです。さらにパンを食べたら、飲み物が必要だろうと考えたときに、文中のwatarは、英語のwaterなどと似ているため、おそらく、watarはヒッタイト語の「水」の語であろうと考え、少しずつヒッタイト語の解読が進んでいったそうです。
愛ってなんだろう? academistに挑戦した訳
講演会の後半は、山本さん自身の研究の話に入ります。
山本さんは、ヒッタイト人の「愛」を探る、というテーマに取り組む理由をいくつか紹介されていました。
理由のひとつは、ヒッタイトの文化を知るためです。ヒッタイト以前にメソポタミアで発展したシュメールやアッカドの遺跡からは、当時の人々の日常生活が記載された出土品が数多く見られます。しかし、ヒッタイトの遺跡から出土するのは、公文書ばかり。重要な文書は、粘土板などに刻み長期保存できる形としましたが、その他は、木材の上にろうそくのろうなどで記録したと考えられています。そのため、ヒッタイト人の日常生活や内面について知る手がかりが非常に少ないのが現状です。数少なくはありますが、公文書の中に描かれる「愛」を読み取ることでヒッタイト人の内面や文化を知る手がかりとしたいと考えたそうです。
もうひとつの理由は、「天は赤い河のほとり」という漫画のテーマに寄せ、一般の方に研究に興味を持ってもらうためです。「天は赤い河のほとり」は篠原千絵さんによる古代ロマンを描いた漫画で、現代に住む女子中学生の主人公がヒッタイト王国にタイムスリップし、さまざまな経験をするという内容です。主人公とヒッタイト王国の王様が互いに惹かれ合う、という描写もあることから、より古代オリエントの研究に対しても親しみを持ってもらえるのではないか、と考えたそうです。実際に、「天は赤い河のほとり」や他の古代オリエントを題材とした漫画がきっかけで、今回のイベントに参加された方がいらっしゃったのが印象的でした。
公文書に「愛」が描かれる悲しい理由 −『ハットゥシリ1世の遺言』
なぜ、公文書に、しかも、国王という高い身分の人間の「愛」が描かれるのでしょうか。ひとつの手がかりとなる文章が『ハットゥシリ1世の遺言』です。ハットゥシリ1世は、ハットゥシャに遷都しました。また、周辺国への遠征を行ってヒッタイト王国の支配を固めていきました。そんなハットゥシリ1世が死を前に『ハットゥシリ1世の遺言』を残します。公文書としての遺言、つまり後継者指名や今後の政治のための文章だと言われています。その一節には、以下のような文章が刻まれていることがわかっています。
大王、ラバルナは、ハシュタヤルに「私を見捨てるな!」と繰り返し言う。…(中略)…「これ以上見捨てるな! 常に私にだけ話せ。私はあなたへの言葉を明らかにする。適切に私を洗い清めよ。あなたの胸に私を抱け。あなたの胸で私を地から守れ。
「これ以上、私を見捨てるな! あなたの胸に私を抱け」とハットゥシリ1世は、死を前に愛情を求める悲痛な叫びを残します。一説によると、ハットゥシリ1世は、家族関係がうまくいっておらず、自分の息子から次王を指名するつもりが、息子には反乱を起こされ、娘にさえも反乱を煽動され、反抗されてしまったそうです。そのため、死を前にして家族からの愛情を求めた文章を残したというわけです。
現代でも、死を前にして、仕事ばかりしなければよかった、家族や友人をもっと大切にしておけばよかった……と後悔する方が多いと聞いたことがありますが、今も昔も、そして、身分も関係なく、人は愛情を求める生き物なのかもしれません。
さまざまな愛の形が見えてきた
山本さんは、今回、academistで得た資金を使って、すでにヒッタイト人の愛に関して研究をスタートされているそうです。
(1)「愛」という言葉が書かれた粘土板文書の読解
山本さんは、数多くの粘土板文書のなかから約50の粘土板に、ヒッタイト語で「愛」を意味する単語の記載を発見しました。しかし、粘土板に残された文章は、公文書がほとんどであり、保管のための複製物が多数あるため、実際に、別々の文章として考えられるものは、12~13個のみだそうです。
(2)結婚や夫婦関係に関する粘土板文書の読解
山本さんは、愛を意味する単語の記載が発見された粘土板文書のなかから、今回は、3つの文章を紹介されていました。『ハットゥシリ3世の弁明』には、夫婦の関係を表すことばとして、『青銅板文書』には、友人や兄弟の関係を表すことばとして、そして『イシュタル神への讃歌』には、女神によって付与されるものを表すことばとして愛を意味する単語が用いられていると分析されていました。
山本さんは当初、この単語について、男性と女性の関係、いわゆる「恋愛感情」を表すことばではないかと考えていたそうですが、男女関係なく、「親しみ」や「慕う気持ち」も表現として含むことがわかってきたそうです。また、人間以外の他の動物や自然に対しての表現は、今のところ発見されていないとのこと。
今後は、残りの粘土板に関しても解読を進め、同時に今回調べた単語以外の、「愛」の同義語と考えられる他の単語についても対象を広げて研究を進めるそうです。
今回のイベントでは、ヒッタイトの歴史に関する研究内容を、
平成28年度夏季特別展「世界の文字の物語:ユーラシア 文字のかたち」
楔型文字から、ギリシャ文字、現代のハングルや漢字まで、新旧問わず30種類以上の文字を扱う展覧会です。展示品も、「目には目を歯には歯を」で有名なハンムラビ法典のレプリカから木簡まで、これほど貴重な資料が一同に集う機会は、滅多にないでしょう。そしてどの展示も日本の博物館・美術館の収蔵品だという驚きです。来館者の理解を促すための仕掛けもたくさんあるので、すっかり文字の魅力に取り憑かれてしまいました。今後も、講演会やワークショップ、ギャラリートーク等イベントが多数開催されるそうです。夏休み期間にぜひ弥生博に足を運んでみてはいかがでしょうか。
この記事を書いた人
- 生命科学(修士)。本職は、知的財産関連職ですが、一般市民とアカデミアのよりよい関係を探るべく、記事を書かせていただいています。