ギ酸で水素エネルギー社会を切り拓く – 重水素ガスを作り分ける新たな触媒技術
ギ酸は水素ガスを安全に貯蔵輸送できる液体
日本国内における燃料電池自動車の販売が開始し、さらに水素ステーションの商用運用も整備され始め、水素エネルギー社会が本格的に幕を開けました。環境負荷が低く高効率なエネルギー媒体となりうる水素を汎用的に利用するためには、水素貯蔵・輸送技術を構築する必要があります。
水素の液化、あるいは高圧ガスボンベが容易に考えうる方法ですが、大量のエネルギーを必要とするうえ、安全上の問題も残っています。水素吸蔵合金は非常に合理的な解決策でありますが、自動車などでの利用条件を満たす材料が見つかっていないのが現状です。
代替案のひとつとして化学的水素貯蔵システムが近年有望視されています。これは、再生エネルギー等を用いて製造した水素を原料に、化学的に安定な水素キャリア物質という形態に変換して水素を貯蔵し、時間や空間を超えて需要先へ届け、最終的に触媒反応を用いて水素を供給するという方法です。
ギ酸(HCOOH)は水素貯蔵密度が4.4 wt%であり、適切な触媒存在下、常圧、比較的低温(~100 ℃)で次の式1に従い水素を放出します。
また、安価で生態蓄積性、爆発性がなく、常温で液体であるため、既存のインフラ設備を利用できるメリットもあります。さらに、二酸化炭素の水素化により製造する技術も研究が盛んになり、再生可能な水素キャリアとして高いポテンシャルをもっています。
ギ酸から高効率に水素ガスを取り出す触媒
これまでに私たちは、塩基性官能基で表面を修飾した担体に固定化した数ナノメートルの大きさの微細なPdAg(パラジウム-銀)やPdCu(パラジウム-銅)合金ナノ粒子を担持した触媒が、ギ酸から水素を製造する優れた金属触媒となることを世界に先駆け報告してきました。
AgやCuなどの金属のみでは反応はしませんが、Pdと合金化することで電子的に活性化されたPd種が生成し、Pd単独よりも飛躍的に水素生成活性が向上します。これを合金効果といいます。また、触媒担体上の塩基性官能基は、微細な合金ナノ粒子の生成、金属表面へのギ酸の吸着濃縮効果、ならびにギ酸O-H結合の解離促進という重要な役割を果たしていることを実験、理論計算から明らかにしています。
高価な重水素ガスの作り分けに成功
上記触媒を重水(D2O)中でのギ酸分解に用いると、水素の同位体化合物である高価な重水素ガス(D2およびHD)が下図の式2ならびに式3に従い、高効率で生成することを発見しました。興味深いことに、表面の塩基性を変えるだけで重水素ガスを任意に作り分けることに成功しました。
特に、弱塩基性フェニルアミン基を修飾した触媒1では、D2ガスが87%の選択性が得られ、強塩基性トリエチルアミン基で修飾した触媒2ではHDガスの選択性が80%に達します。
作り分け成功の鍵は、固体(触媒)表面上でのH-D交換反応を、塩基性の違いを利用して制御できた点にあります。下図にその反応メカニズムをまとめました。弱塩基性触媒1上では、ギ酸とPdAg合金ナノ粒子上でのformate種の生成、CO2脱離を経て中間体4がD2O溶媒中では生成しますが、PdAg合金ナノ粒子上でのH-D交換反応、弱塩基性フェニルアミン基上でのH-D交換反応に要する活性化エネルギーは同程度であるため両反応が同時進行し、中間体6からのD2ガス生成が選択的に起こるようになります。
一方、強塩基性触媒2を用いると、金属ナノ粒子上でのH-D交換反応に要する活性化エネルギーに対して、強塩基性トリエチルアミン基上でのH-D交換反応に必要なエネルギーが高く、中間体8から9の反応は抑制されHDガスが選択的に生成します。
水素の同位体化合物である重水素ガス(D2およびHD)は、化学・生物学の実験研究用試薬として、また、半導体、光ファイバーなどの製造工程でも使用される高価な特殊ガスです。
現状D2ガスはD2Oの電気分解により、HDガスはH2とD2の接触同位体交換法によりそれぞれ合成されていますが、いずれもエネルギー多消費型のプロセスのため、市販品は極めて高価です。また、日本ではそのほとんどを海外からの輸入に頼っているため、触媒技術を用いた簡便な合成法が望まれていました。
今回私たちが開発した触媒は、調製が極めて簡便である、安定性が高く分離・回収の容易な固体触媒である、塩基性を制御することで目的の重水素を任意に得られる、など実用化に不可欠な基盤要素を兼ね備えています。これにより、今後の世界的な需要拡大が予想される重水素の製造に対応できる低コスト製造法として期待されます。
量子トンネル効果が関与?
物質を粒子として扱う古典力学では、化学反応が進行するためには反応物が活性化障壁を乗り越えるエネルギーが必要です。すなわちアレニウスの式に従い、熱を加えれば反応が加速しますが、これとは異なり電子や質量の軽い水素原子では波動性が顕著であるため、熱力学とは関係なく量子トンネル効果によって活性化障壁を透過して化学反応が進む場合があります。
これまで、電子伝達系、酵素、種々の有機化学反応などにおいて量子トンネル効果が確認されています。トンネル効果を直接観察することは非常に困難ですが、物質の波動性は質量に反比例するため、重水素原子(D)は水素原子(H)に比べ障壁を透過しにくく、大きな同位体効果が観測できます。
今回紹介したギ酸からの水素生成反応には量子トンネル効果が関与しており、特にPdAg合金ナノ粒子上でのH-D交換反応が量子トンネル効果に支配されていることを、同位体効果および理論計算を用いて私たちは証明しました。
水素原子はH2Oをはじめ非常に身近な元素であるため、水素が関わる化学反応に量子トンネル効果がどのように関与しているかを理解することは、学術的な意義が極めて高いものです。量子トンネル効果は昨今新しい反応パラダイムとして注目されており、熱力学的および反応速度論的制御に加え、量子トンネル効果を利用して化学反応が制御できる可能性があります。
参考文献
- K. Mori, S. Masuda, H. Tanaka, K. Yoshizawa, M. Che, H. Yamashita, “Phenylamine-Functionalized Mesoporous Silica Supported PdAg Nanoparticles: A Reversible Heterogeneous Catalyst for the Formic Acid/CO2-mediated Chemical Hydrogen Delivery/Storage”, Chem. Commun., 53, 4677 (2017)
- K. Mori, Y. Futamura, S. Masuda, H. Kobayashi, H. Yamashita, “Controlled Release of Hydrogen Isotope Compounds and Tunneling Effect in the Heterogeneously-Catalyzed Formic Acid Dehydrogenation”, Nat. Commun., 10, 4094 (2019).
この記事を書いた人
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森 浩亮 (Kohsuke Mori)
大阪大学大学院工学研究科マテリアル生産科学専攻 准教授
2003年大阪大学大学院基礎工学研究科物質創製専攻博士後期課程修了 博士(工学)。2004年カリフォルニア大学バークレー校博士研究員(学振PD)、2005年大阪大学大学院工学研究科マテリアル生産科学専攻助手、講師を経て2011年より現職。主にクリーンエネルギーの生成、環境浄化をターゲットとした金属ナノ粒子、金属錯体を基盤とした触媒・光触媒の開発に従事。