赤ちゃんの知覚は老人と似ている? – 運動知覚の発達過程を探る
私たちは皆、赤ちゃんだったときの記憶を持っていません。したがって、赤ちゃんのときにどのように外の世界が見えていたのかを覚えている人はいません。赤ちゃんが見ている世界は、私たち大人と変わらないのでしょうか? それとも何か大きな違いがあるのでしょうか?
私たちのグループは最近、赤ちゃんの知覚している世界は、実は老人のものに近いのではないか、ということを示す研究結果を得ました。
動きの知覚と抑制メカニズム
今回、私たちの研究では、「動きを知覚する能力」を対象にして、赤ちゃんの知覚の発達過程を調べました。
私たち大人では、動いている物体を見るとき、物体のサイズが大きくなるほど運動方向の知覚が困難になるという、一見直観に反するような現象がみられます。これは「周辺抑制」という、視覚を処理する神経細胞が持つ抑制メカニズムを反映した知覚的現象であると考えられています。
視覚を処理する神経細胞は、私たちが何かものを見たときに活動しますが、すべての神経細胞が常に活動するわけではありません。1つひとつの神経細胞には“担当領域”が決まっていて、視野の一部の範囲にものが映ったときだけ活動します(この担当領域は受容野と呼ばれます)。
脳内には視覚的な動きを専門的に処理する神経細胞があります。この神経細胞は、自分の担当の視野内(受容野)に“動き”が提示されると強く活動しますが、その少し外側の領域にも同時に動きが提示されると、抑制がかかり活動が弱まることが知られています。これが周辺抑制です。物体のサイズが大きいと運動方向の知覚が困難になるという知覚現象は、この神経メカニズムを反映していると考えられています。
高齢者は若者より優れた知覚能力を持つ?
一方、高齢者では動きの知覚能力はどうなっているのでしょうか? 実は高齢者では、若年成人と異なり、物体が大きくなっても運動知覚の能力が低下しません。そして興味深いことに、大きい物体を見る場合は、高齢者の方がむしろ若者より運動知覚能力が高くなることが知られています。これは、高齢者では周辺抑制の機能が低下しているためであると考えられています。
このように運動知覚には特徴的な老化の過程が存在します。しかし、この知覚現象に関する乳児期の発達過程についてはこれまでまったく検討されてきませんでした。この現象は赤ちゃんでも見られるのでしょうか? 老化とは逆の生後間もない発達の時期には何が起きているのでしょうか? 私たちは、生後3か月から8か月までの赤ちゃんを対象に、この抑制メカニズムに基づいた知覚現象が発達にしたがってどのように変化するかを調べました。
赤ちゃんの運動知覚を調べる
1人ひとりの知覚世界は完全に主観的なものなので、外からは観察できません。大人では、こう見えたらこのボタンを押してもらう、というような課題を行うことで知覚を測りますが、赤ちゃんは言葉がわからないのでそのような方法は使えません。そこで「馴化法」という手法を用います。馴化法とは、特定の視覚情報に馴化した(飽きた)後は新しいものを好んで見るという赤ちゃんの性質を利用して、2つの異なる視覚情報が弁別できているかどうかを調べる方法です。
実験では、まず、赤ちゃんに対して、縞模様が左右いずれか一方に動く映像を飽きるまで繰り返し見てもらいました。その後、左右それぞれに動く縞模様を画面の左右に同時に提示して、それぞれの動きへの注視時間を測定しました。先ほど述べたように、赤ちゃんは新しいものを好んでよく見る傾向を持っています。したがって、すでに見飽きた方向の動きと新しい方向の動きへの注視時間を比較して、新しい動きを長く注視していたかどうかを調べることにより、2つの運動方向の違いが知覚できていたかを知ることができます。もし2つの運動方向を弁別できていなければ、注視時間には差がなくなります。この方法により、大きい縞模様と小さい縞模様を使って、それぞれの運動知覚能力を調べました。
逆U字型の発達 – 老化軌跡
実験の結果、生後6か月以降の比較的高月齢の赤ちゃんでは、大きい縞模様より小さい縞模様の方が、運動方向の違いをよく知覚できていることがわかりました。これは若年成人と同じ傾向です。一方、生後6か月未満の小さい赤ちゃんでは、大きい縞模様の方が運動方向をよく知覚できていました。こちらは高齢者と同じ傾向です。この結果は、周辺抑制の神経メカニズムが、生後6か月ごろに獲得されることを示しています。
つまり、生後6か月未満では広い領域の運動知覚が得意ですが、6か月以降になるとこの能力が失われ、逆に狭い領域の運動知覚が得意になって成人の知覚能力に近づきます。そして、高齢になると、抑制機能が衰えて広い領域の運動知覚が得意になり、低月齢の赤ちゃんのときの知覚に戻っていきます。運動知覚における抑制機能は、このような逆U字型の発達-老化の軌跡を描くことが明らかになりました。
ではなぜ、発達にしたがって、広い領域の動きを知覚する能力が失われ、狭い領域の動きの知覚が得意になっていくのでしょうか? 周辺抑制は、物体の動きを背景の動きから区別して検出する機能に貢献していると考えられています。したがって、周辺抑制が未発達な低月齢の赤ちゃんでは、雑多な動きのなかから、見たい物体の動きを正確に切り分けて知覚することが難しいと考えられます。私たちは、大きいサイズの動きへの感度を低下させることによって、“物体の動き”という生きるうえでより重要な情報を知覚する能力を獲得していくと考えられます。
参考文献
- Nakashima Y., Yamaguchi M.K., & Kanazawa S. (2019). “Development of center-surround suppression in infant motion processing.” Current Biology, 29(18), 3059-3064.
- Lin Y. & Tadin D. (2019). “Motion perception: Slow development of center-surround suppression.” Current Biology, 29(18): R878-R880.
この記事を書いた人
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中島 悠介(写真)
中央大学研究開発機構 機構助教/日本学術振興会特別研究員(PD)
早稲田大学大学院文学研究科心理学コース博士後期課程修了。博士(文学)。早稲田大学文学学術院助手を経て現職。ヒト(成人、乳児)の視知覚のメカニズムについて、心理物理学や脳活動計測などの手法を用いて研究を行っている。
山口 真美
中央大学文学部 教授
お茶の水女子大学大学院人間発達学専攻、単位取得退学。博士(人文科学)。ATR人間情報通信研究所研究員、福島大学生涯学習教育研究センター助教授、中央大学助教授を経て現職。
金沢 創
日本女子大学人間社会学部 教授
京都大学理学研究科霊長類学専攻、単位取得退学。博士(理学)淑徳大学助教授などを経て現職。
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