過酷な経験を経てもなお、心身の健康を保つことができた人々の共通要因は何か? – 健康生成論と「Sense of Coherence」
健康生成論とSense of Cohenrece
皆さんは、ご自身の健康と幸福に関心はありますか? この2つに関心がまったくない、という方はそうそういらっしゃらないのではないかと思います。健康はさまざまな活動の基盤となるものですし、幸福はさまざまな活動の目的になるものだと考えられるからです。
Aaron Antonovskyによって提唱された健康生成論は、健康を「健康か健康でないか」の二分法で捉えるという疾病生成論的見方から、健康を「健康—健康破綻の連続体上の位置」として捉えるという健康生成論的見方への転換を提案したものであり、WHOの健康憲章(1986年オタワ憲章)にも影響を与えたとされるものです。
私たちは過酷な経験をした後では、心身の健康を崩し、幸福を感じられなくなる傾向にあると言えます。経験した事柄が過酷であればあるほど、その傾向は長く、顕著になるでしょう。
しかしながら、若い頃に強制収容所体験という極めて過酷な経験をしたにも関わらず、更年期になっても心身の健康を保っていた女性たちがいました。Antonovskyはこの女性たちに注目し、過酷な経験を経てもなお心身の健康を保つことができた要因は何であるのかを研究し、健康生成論を導出しました。その中核概念となるのが、Sense of Coherense(SOC)と呼ばれるものです。
SOCが強い人は健康で幸福である
SOCは、人生に対する全般的な向き合い方であるとされ、「把握可能感」、「処理可能感」、「有意味感」の3つの下位感覚から構成されています。把握可能感とは、自分の置かれている状態や、置かれるであろう状態がある程度予測でき、また理解ができるという感覚です。「処理可能感」は、自分に対して困難が降りかかっても、なんとかなる、なんとかやっていける、と思える感覚です。「有意味感」は、降りかかってくる困難や、日常の生活の少なくともある部分にはやりがいや取り組みがいを感じられるという感覚です。
これら3つの感覚がバランスよく強い人が、SOCが強い人とされます。健康生成論では、SOCは「健康—健康破綻の連続体上の位置」を健康の極に移動するため、また健康の極にいられるために極めて重要なものと位置づけられています。
これまでのさまざまな研究から、SOCが強い人は、心身の健康状態が良好で、QOLやwell-being、主観的幸福感が高い傾向にあることが示されてきています。このため、SOCは医療や看護の分野で注目され、研究が進められてきました。しかしながら、それは本当にSOCによるものであるのか? 他の概念で説明可能なのではないか? という点については、あまり検討が加えられてきていません。
ただ単に、「自分に関する捉え」が好ましいだけでは? という疑問
心理学に研究の軸足を置く私は、SOCが本当に健康や幸福の予測因であるのかについてを、まずは検証する必要があると考えました。そこで、「SOCが健康や幸福感に対して有する効果は他の概念で説明できる」という仮説を立て、その可能性を検討してきました。
そのなかで取り組んだ視点のひとつに、「自分に対する捉え」があります。心理学では、自己観や自己概念、自己複雑性と言われる、「自分に対する捉え」に関する研究があります。これらの研究では、「自分に対する捉え」が好ましい、つまり、自己観の好ましさが高い人は、抑うつ(精神的健康)が低く、主観的幸福感が高い、という結果が示されてきています。
そこで、この自己観の好ましさとSOCのどちらがより抑うつや主観的幸福感を強く予測するのか、また、自己観の好ましさの影響を取り除いても、SOCは抑うつや主観的幸福感に対して予測力を有するのかを、質問紙調査を用いて検討しました。もしも、自己観の好ましさの方がSOCよりも抑うつと主観的幸福感を強く予測したり、自己観の好ましさの影響を取り除いた場合、SOCが抑うつや主観的幸福感を予測しなくなった場合、研究すべきはSOCではなく自己観の好ましさである、という主張が成り立ってしまいます。
自己観の好ましさよりも、SOCのほうが抑うつや主観的幸福感を強く予測する
この研究では、大学生93名を対象に、統計的な解析手法である構造方程式モデリングによる媒介分析を用いて、上記の仮説を検証しました。結果として、抑うつに対しては、把握可能感、処理可能感、有意味感というSOCの3つの下位感覚すべてが負の効果を有しており、一方で、自己観の好ましさは抑うつを予測しませんでした。
主観的幸福感に対しては、有意味感のみが正の効果を有しており、一方で、自己観の好ましさは主観的幸福感を予測しませんでした。
以上のことから、この研究では、抑うつや主観的幸福感を予測する要因はSOCであり、自己観の好ましさはSOCによる疑似相関であることが示唆されました。つまり、これまでの自己観の好ましさに対する研究の結果で得られてきた、自己観の好ましさが抑うつや主観的幸福感と関連するという結果は、SOCによって説明が可能である可能性が示唆されました。
このことから、抑うつを低めることや主観的幸福感を高めることについての研究では、自己観の好ましさに注目するよりも、SOCに注目したほうが有意義である可能性が示唆されたと言えるでしょう。ただし、調査対象者と分析対象者を拡大した追試や、別の角度から自己観の好ましさを捉え、この問題に取り組む研究も必要であると考えられます。
人々の健康と幸福の増進のために、SOCを研究する意義は高い
この研究の結果を踏まえると、抑うつを低めたり主観的幸福感を高めることについて、SOCの視点から研究することが重要であると言えそうです。しかしながら、低い抑うつや高い主観的幸福感を予測する概念は他にも多数あります。
私はこれまでに、自己効力感、基本的信頼感、楽観性、自尊心、自己肯定感を取り上げて研究を行いました(学会発表はしましたが、論文にはまだしておらず、順次論文にする予定です)。結果として、SOCが抑うつや主観的幸福感に対して有する効果は上述した概念のいずれにおいても完全に説明はされず、SOCは抑うつや主観的幸福感に対して独自の効果を有していることが示されてきています。つまり、抑うつを低めたり主観的幸福感を高めることについて、SOCの視点から研究を進める意義は十分にあると考えられます。
人々の健康と幸福の増進は、世界的に見ても重要な課題です。Antonovskyは、SOCを形成・強化する経験についても仮説を提示しています。この仮説が正しいものであるならば、SOCを形成・強化する経験を意図的に提供することで、人々の健康と幸福の増進を促すことができると考えられます。
特に、学校教育などの教育場面において、SOCを形成・強化する経験を提供することが有効である可能性があります。しかしながら、SOCを形成・強化する経験についてのAnotonovskyの仮説はこれまでにあまり検証されてきていません。今後は、AntonovskyのSOCを形成・強化する経験についての仮説が本当に正しいのかを検証する必要があるでしょう。
参考文献
- Antonovsky, A. (1987). Unraveling the mystery of health: How people manage stress and stay well. Jossey-Bass Publishers, Sun Francisco.(アントノフスキー, A. 山崎 喜比古・吉井 清子(監訳)(2001). 健康の謎を解く——ストレス対処と健康保持のメカニズム—— 有信堂)
- 磯和 壮太朗・野口 直樹・三宮 真智子 (2019). 大学生の Sense of Coherence が抑うつと主観的幸福感に及ぼす影響に対する自発的な自己観の好ましさによる媒介効果の検討 Journal of Health Psychology Research, 31(2), 155-164.
- 山崎喜比古・ 戸ヶ里泰典・坂野純子 (編) (2019). ストレス対処力 SOC 有信堂
この記事を書いた人
- 三重県志摩市出身。2008年3月に三重大学教育学部人間発達科学課程を卒業後、一度就職し社会人となる。なんやかんやあり、2013年4月に三重大学大学院教育学研究科(修士課程)に進学。2015年4月に大阪大学大学院人間科学研究科に進学、2019年3月に同大学院を修了、博士(人間科学)を取得。現在、家業(真珠販売業)と非常勤講師で生計を立てつつ、中部・関西圏で大学教員としての就職を志し、公募に応募している。その一方で、やせいのけんきゅうしゃとして主にSense of Coherenceの研究に勤しんでいる。