幸福と心理学

この10年ほど、幸福が心理学や経済学のテーマとして取り上げられるようになりました。誰もが関心を持つテーマにしては研究の始まりが遅いのですが、その理由のひとつには、「幸福なんて人それぞれでしょう?」、「科学の対象になるの?」という疑問が根強いということがあるでしょう。しかし、心理学には「人それぞれ」ということ自体を研究対象としてきた長い歴史があります。個人差(パーソナリティ)の心理学と呼ばれる分野です。多くの人を対象に調査を行うことで、幸福の度合いの高い人も低い人もいること、さらに、高い人と低い人とではその行動やとりまく社会環境にどのような違いがあるのかを明らかにすることができます。幸福の度合いが高い人と低い人とで見られる行動の違いは主に心理学で、社会環境の違いは主に経済学で研究されてきました。

これまでの多くの研究でわかっていることは、収入の高い人ほど幸福は高いことです。ただし、その影響力はあまり強くありません。一方、その人が日ごろどのように行動しているかは幸福に対してより強い影響をもつことがわかっています。

この研究では、収入という社会環境の影響と心理的傾向の影響を組み合わせたらどうなるか、に着目しました。社会環境の要因が幸福に影響するのであれば、理屈の上では所得の再分配などの政策によって多くの人の幸福を向上させることが可能なはずですが、現実には経済格差や長時間労働の問題が続いています。一方、もしある心理的傾向をもつ人は、幸福になるのに収入などの影響を受けにくいということがわかったらどうでしょうか。収入が低くても幸福が下がらないような心理的傾向が見つかれば、人々が幸福になるための自由な選択肢が拡大したとはいえないでしょうか。そんな期待をもって研究に着手しました。

収入によらずに幸福になれる人は?

本研究では、収入が幸福感に影響する人と、しない人(収入が多くても少なくても幸せを感じられる人)がいるのではないかと考えました。さらに、その違いはマインドフルネスと呼ばれる心理的傾向によるのではないかと考えました。ここでマインドフルネスは、「意図的に、今この瞬間に、偏った判断を避けて注意を払うこと」と定義しました。マインドフルネスの高い人は、その瞬間瞬間に起きていることに丁寧に注意を向けています。たとえば、食事のときもスマホを見ながらかきこむのではなく、じっくり歯ごたえ、味、香りをあじわいます。また、自分よりも収入の多い人や社会的に成功している人と比べて、ついひけめを感じたりすることは誰にでもあります。そのようなときに、マインドフルネスの高い人は、一時の思いに振り回されずに、自分は自分、他人は他人として各々かけがえのない大切な存在であると感じて平穏な気持ちを保つことができます。

20歳から60歳までの社会人800名に、年収、幸福感、マインドフルネスについての質問を含んだWeb調査をおこない、年収について回答のえられた734名を対象に分析を行いました。マインドフルネスの傾向の高い人と低い人の違いを分析したところ、マインドフルネスの傾向の低い人では収入の多い人の方が幸福感が高いという従来通りの結果であったのに対し、マインドフルネスの高い人では収入と関係なく幸福感が高いことがわかりました。下図でマインドフルネスの高い人を示す赤い点線はほぼ水平で、マインドフルネスの低い人を示す黒い直線よりも上の方、つまり幸福感の高い方にあります。

グラフは、右にいくほど年収が多く、上にいくほど幸福感が高いことを示している。自分の体験を批判的に見ない人(赤い点線)は収入と関係なく幸福感が高い(上)。自分の体験を言葉で表現するのが得意な人(赤い点線)は収入と関係なく幸福感が高い(下)。

マインドフルネスの高い人とは

マインドフルネスはいくつかの側面にわかれますが、今回、収入が多くても少なくても高い幸福感がみられた人の特徴には2種類あることがわかりました。ひとつ目は、自分の体験を批判的に見ないこと、もうひとつは、自分の体験を言葉で表現するのが得意なこと、でした。

人は望まなくてもいろいろなことが勝手に頭に浮かぶものです。たとえば「お金が無いと良い人生は送れない」という考えが浮かんだとします。そのときに、その考えを真に受けてしまうと「私の年収では幸せになれない」と落ち込んでしまい、幸福は損なわれます。しかし、同じ考えが浮かんでも、考えが浮かんだという事実に気づきながら、考えが浮かんだという以上にも以下にも捉えなければ、真に受ける必要も否定する必要もないと思えるようになるでしょう。そうすれば、幸福は損なわれません。また、自分の体験を批判的に見ない人は、他人との優劣にこだわらずに自分を大切にできることも分かっています。自分よりも収入の多い人にひけめを感じたりしなれば、人は安定した気持ちで過ごすことができて、幸福感も高くなるでしょう。

自分の体験を言葉で表現するのが得意な人は、一瞬一瞬の体験を丁寧に見つめています。たとえばお菓子を食べるとき、他のことを考えながら口にほうり込むのと、じっくりかみしめ味わうのとでは、感じ取ることのできるおいしさや充実感は違います。同じことをしていても、自分の体験を丁寧に見つめたほうが、そこから得られる幸せが多いのです。日々の生活のなかで幸せを感じた出来事を記録することで、幸福感を向上させるウェルビーイング療法という方法もあります。さらに、いやな気分は言葉で表現すると弱くなることもわかっています。たとえば、収入の低いことでストレスを感じている人がいたとします。しかしそのいやな気分を、うまく言葉に表現できればさほど苦しくならず、幸福も損なわれないでしょう。

さいごに:ウォールデン3

今回は、マインドフルネスの高い人と低い人を比べています。しかし、マインドフルネスは自分の呼吸にゆっくりと注意を向ける、といったトレーニングによって高めることも可能です。働き過ぎや経済格差が問題となっている現代社会で、幸福になるための新しい道筋が示唆されたといえます。また、収入は、生活に影響する重要な要因ですが、生活のしかたそのものではありません。収入とも関連の深い生活スタイルとして、倹約やシンプルライフといったものがあります。今後の研究で、お金をかけずに日々の生活に丁寧な注意を向ける、そのような幸せになるためのコツをみつけたいと思います。

そんなライフスタイルを“ウォールデン3”といっても良いかも知れません。ウォールデンというのは文庫本にもなって広く読まれている『森の生活』(岩波文庫)に描かれる、19世紀半ばにヘンリー・ソローが人間関係のしがらみから離れて自給自足生活をした場所にある湖の名前です。およそ100年後、行動主義心理学の提唱者バラス・スキナーは『森の生活 ウォールデン2:心理学的ユートピア』(誠信書房)という小説で、自らの理論に基づくユートピアを描きました。スキナーは環境を精緻にコントロールすることで、人の行動は望ましい方向にも、その逆にもなると考えます。一方、同じ心理学でも、マインドフルネスに基づいたアイデアは、日々の生活を、その人自身がどれだけ意識して気づいているかが重要だと考えます。環境よりも個人の意識の向け方を重視するのです。ウォールデン3は実はソローの描いた森の生活に近いかも知れません。

参考文献
Sugiura, Y., & Sugiura, T. (2018). Mindfulness as a Moderator in The Relation Between Income and Psychological Well-Being. Frontiers in Psychology, 9, 1477.

この記事を書いた人

杉浦義典
1973年愛知県岡崎市生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。博士(教育学)。専門は異常心理学。日本学術振興会特別研究員、信州大学人文学部助教授を経て、広島大学大学院総合科学研究科准教授。2000年、日本教育心理学会城戸奨励賞受賞。主著に『他人を傷つけても平気な人たち: サイコパシーは、あなたのすぐ近くにいる』(河出書房新社)、『アナログ研究の方法』(新曜社)。