Challenge period
2024-09-03 - 2025-08-31
Final progress report
Tue, 05 Nov 2024 20:50:10 +0900
Progresses
14 times
Supporters
68 people
Elapsed time
Tue, 03 Sep 2024 08:00:00 +0900
みなさん、こんにちは。つっちーです。
いつも温かいご支援・応援、本当にありがとうございます。
ちょっと久しぶりですね、元気にしていましたか。
いつも、みなさんに心身お大事にね、なんてことを言っているけれども、実は私、今ずっと喉の風邪にやられています…。
きっかけは今月はじめの宮崎での災害ボランティアですね。作業中はずっとマスクをしていたのですが、最後のゴミ袋縛りなどでうっかりマスクを外して作業してたからか、そこで細かい塵などを吸っちゃって、それからずーっと咳が出たり、深く呼吸できなかったり、痰に苛まれていたりしています……。
そういうわけですから、念には念を、他者の健康を気遣いつつ、自分の健康にもセルフチェックというわけで書いているんですね。
本当に大事だから書いているんです。
そんなこんなで10月末は能登島に行ってきたり、取材対応で出かけたり、そしてこの三連休はおうちでゆったりしつつ、やること・考えることをのびのびやっていました。おかげで元気になりましたよ!
これらのお話はまたいずれ。
というわけで、タイトルの通り、今回は私の研究のきっかけについて書いておこうと思います。
はじめから書くとかなり長くなっちゃうから、何回かに区切っておきます。
長めときどきエモめ。
実は約2ヶ月前に日本南アジア学会という学会で、これまでの復興に調査に関するお話をする機会がありました。
タイトルはこんな感じ。
「災害復興の多重性:スリランカ・ラトゥナプラ市の洪水復興の聞き書きと能登半島地震の災害ボランティア実践との重ね書きから」
こういうタイトルにした理由は大きく2つ。それが発表した内容にもつながっていきます。
第1に、「つっちーさんって何でスリランカで研究しようとしたんですか?」という質問をこれまで多くいただいたからです。
第2に、「つっちーさんってスリランカで研究してたのに、何で最近日本の地方でも研究しようとしたんですか?」という質問もここ最近多くいただいたからです。
話が長ーくなりそうですから、今回は一つ目の途中だけ。
これは端的に言っちゃえば、「本当に偶然です」としか答えようのない出会い方だったからです。
フィールドワークをする人にとっては本当によくある答え方ですね。
誰しも偶然としかいえない出会い方や憧れ、衝撃などはあるのではないでしょうか。
人類学をはじめとするフィールドワークを行う人たちは、こうした偶然や出会いから可能性を開き、気になること、ギョッとする経験、なんなんだこれ…と言葉にすることを抗うような場面に出くわしていくのです。
一番最初のスリランカの出会いは当時大学3年生、2015年の福岡県主催の国際協力リーダー育成プログラムの参加で、その訪問国がスリランカでした。当時は民族紛争からの復興や津波災害の復興、ゴミや水質などの環境開発に関して現地NGOや国際機関の実践について、2週間バンに揺られながら北部と中央、西部、南西部あちこちに伺いました。
特によく覚えているエピソードを一つ。
北部の民族紛争復興地において、コミュニティセンターづくりのお手伝いをしていた時のこと。ブロック塀にペンキを塗る作業がまあ大変で。
休憩中、キングココナッツウォーター(すごく果物の甘味が遠くで薄く感じるポカリの味で、飲むと私としては喉がイガイガする飲みの感覚)を飲みながら、タミル族のおばあちゃんに「このセンターをどういうふうに使いたい?」と訊いたんですね。
そしたらこう答えたんです。
「私たちのためというよりも、子どもや孫、さらにその先の世代にとって教育や仕事、地域の集まりのために使われる場所になってほしい」
そんなことみたいなのをおっしゃっていて、未来を見つめるその心と瞳、顔が本当に美しいなと心から憧れていました。
そこからスリランカとはかかわりはほとんどピタッと止まります。本当に。
でも、あるとき、転機が訪れます。
それは大学院に進学した時のこと。当時の私は研究テーマを災害や防災、復興にしたいなあと思いつつ、具体的に何をするか、どこでするのかと悩んでいたときのことです。
当時の指導教員からは「災害の研究するんやったら、自分でフィールド見つけてそこで研究する気概がないとあかんで(大意)」と言われ、まあそうだよなあと思い、いろんな分野や国、トピックの先行研究を読んでいて、理論やケーススタディの文章にちょっと飽きてきていて。フィールド行きたいけど、ツテがないから調査もできないなあ、周りの学生たちもチームで調査少しずつ入り込んでいるし、ちょっと憧れと自分のできなさに意気消沈していたときでもありました。
修士1年の冬12月はじめ。ある人からメッセンジャーが届きます。
「リオ(リョウってアルファベットにしてその字面で読むとなんか不思議な発音になっちゃうので、海外ではこちらの呼び方で紹介することが多いです)、覚えているかい? よかったら僕と話そうよ。」
この人は、前に書いたプログラムの際に、スリランカとはどんな国か、スリランカをはじめとする途上・中途国でどのように草の根で民主的な取り組みを行えるのか、その知識や実践を教えてくれたスリランカのおじいさん、ラリスさんです。その彼は福岡に住んでいて、街中で一緒に飲みながら(と言いつつ僕は全くお酒が飲めない、飲まない人でソフドリです)こんな感じで語らっていました。
「リオ、覚えているかい?」
「何を?」
「君はこの夏に、スリランカに寄付をしたよね」
「…ああ、洪水災害で見舞われた地域だよね? うん、覚えているよ」
「だったら、その地域で研究するというのはどうだい?」
この話の時、そういえばと思い出したのです。2017年5月末、スリランカ南西部では稀に見る大規模な洪水や土砂災害が起こり、街中が泥水に浸かるような事態になっていたのをラリスさんのFacebookの投稿、さらに寄付を募る呼びかけがあり、私はそれにささやかな額ながら寄付したのです。ラリスさんはそのことを覚えていました。
「リオ、あの時スリランカを訪れたことを覚えているよね。その時の感謝の気持ちを今、研究で返すときなんじゃないか?」
そうだよな、もう一度スリランカに訪れたい。
あの声、瞳、笑顔が残るスリランカに出会い直したい。
できるなら、きちんと恩返しできるかわからないけど、やれること、考えてみたいことを一緒にやりたい。
この提案に私は少し驚きつつ、妙な納得感、えもいわれぬ腑に落ちる感覚になったのです。
そうした意識から返事しました。
「そうだね、僕はスリランカで研究するよ」
そうしてスリランカで洪水と復興の研究をすることになったのです。
この後、ラリスさんのおかげでスリランカのキーパーソンの人たちを紹介してもらい、フィールドとなるラトゥナプラ市に出会うことになりました。
でも、先行研究とか言語とか生活がなかなか慣れなくて大変な思いをした…というのはまた別の話。
というのが、私にとっての「なんでスリランカで研究したんですか?」の長い答えです。
ちょっと美談っぽいところもあるかもしれませんが、まあ笑って許してください。
現在進行形の話をすることも大事で、たまには原点回帰というか、はじまりの物語をここで共有して、これからのビジョンをできるかぎり私の肩越しにでも同じ目線でみなさんと見れたらいいなと思います。
長かったですよね。ちょっと窓の外の景色でも、ふとすれ違う人の顔を見てくださいね。
それでは、またね。
つっちー(9年前のスリランカの古都キャンディを歩くつっちーの写真を添えて)