こんにちは、いしざかです。
11月は4名のサポーターさんにご支援をいただきました。
誠にありがとうございます。
academistに参加した理由には「看護学を知って生活に活用してもらいたい」という思いがあるのですが、その思いがもう少し届くといいなと思い、(しぶしぶ)Twitterを使うことにしました。
以前Twitterで宣伝してくれた後輩が「本アカがリツイートしてくれてー…」と言ったのに対して「ほんわか???」と言ってしまい「違います…」と言われた私ですが、がんばろうと思います。
本日は、先週末に行ってきた老年精神医学会・認知症学会(合同開催)のおすそわけです。
招待講演の中に、養老孟司先生による「養老訓」という講演がありました。
その講演で、こんなお話がありました。
―養老先生が銀行に行ったときの会話―
養老先生「本人確認書類を忘れてしまいました」
銀行員「ご本人であることはわかってるんですけどね…規則なので…」
さすが有名人。という感じですが、先生は「本人確認なのに当の本人がノイズになっている」とおっしゃっていました。
本人であるということが本人確認の要なはずなのに、決まった情報(免許証など)以外は余計な情報になってしまい、本人の存在すらもそうであるという…
おかしな話(おもしろいし変)だなぁと思いつつ、看護の世界で使われる「本人中心」について考えてみました。
看護の世界でいう「本人中心」というのは、治療やケアなどの意思決定をするのは医療者でもなく家族でもなく、本人であるということです。
この背景には、昔「パターナリズム」とよばれる医師の決定に従うという時代があり、これに対して「インフォームドコンセント」という、情報提供を十分にした上で合意形成をしましょうという考え方が提唱されました。
そういいつつも「本人中心」になっていないこともある、というのは現代でも課題だと思います。例えば
・本人の意思を確認しない
・都合のいいときだけ「本人が決めることだから」と本人に投げる
といったことがあります。
看護師時代、ケア方針も退院先も決まらなかったエンドオブライフ期の認知症患者さんについて
同僚「だって家族も来ないし誰もこの人の今後の方針を決められない」(オブラートに包んでこれ)
と言われ、『は?本人に聞いたのかよ』と内心ぶちぎれて患者さんのベッドサイドに行き、
私「今こういう状況です、こういう方法とこういう方法だと、○○さんはどっちがいいですか」
と一か八か聞いてみたら
患者さん「こっちがいいです」
と返答が返ってきて、看護師人生で忘れられない経験をしました。
私がどれだけびっくりしたか伝わりにくいかもしれませんが、そのころ既に意識がはっきりせず、話しかけても反応がないことが多かった人から、こちらの伝えたいことが伝わったことがわかる、しっかりした返答が来たのでした。
その後も、このときほどしっかり反応は一度もありませんでした。
話がずれてしまったので戻すと、自分が患者として受診するとき、
医師「ご本人が決めることなんでね~」
と、十分な情報も提供されないまま意思決定を丸投げされることもあります。
(それは”インフォームド”コンセントとはいわない)
「本人中心」というと聞こえがいいからか頻繁に使われてしまうけれど、
本当に本人のこと考えてるのかよ!
そこで言ってる「本人」ってなんだよ!
ということが言いたかったのでした。
あと、看護師をしているとちょっとした不思議体験みたいなことがありますよっていう。
東京国際フォーラムは広くて迷子になりました【写真】
もしよろしければ、ご支援をどうぞよろしくお願いいたします。
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2022.12.1
いしざか
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