ご無沙汰しております。いしざかです。
昨年末に本審査を終え、残すは発表会と最終提出というところです。
他分野の研究者に「本審査が終わった」と言うと、「おめでとう!」ともう博論が終わったかのように言われるのですが、修士のときから5年間「発表会も審査の場です」と刷り込まれている真面目な看護分野の私にとっては、まだ気を緩められない時期です。
というわけでまだまだ博論執筆中ですが、ちゃんと修了してサポーターさんに報告するぞというモチベーションで頑張っております。
昨年末、「脱毛から身体と社会の関係性を考える」という公開講座をオンラインで聴講しました。
これがおもしろかったのと、そこからいろいろと考えたのでシェアします。
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医療人類学者の磯野真穂先生が書かれた小説「HRR」を起点に講演と議論がありました。
HRRは脱毛権という意味で使われていて、脱毛することが人々の健康にかかわり、脱毛することが権利になった世界のお話です。
小説の序盤に登場する「ジブンらしく」という脱毛の広告は、実は私も電車の中で見かけたときにものすごく違和感を覚えました。
脱毛に自分らしさも何もなくないか?脱毛したら自分らしいの?ありのままは自分らしさじゃないの?と思いました。
こういった違和感がここまでおもしろい小説になるんだ~と思ったので、ぜひ読んでみてください。
まず読んで思ったのは、人間はやはり社会的動物だなということでした。
小説の中では、有毛の(脱毛していない)人が無毛の(脱毛した)人より自殺率が高くなっています。
これが起きるとしたら、有毛であることが他者に迷惑をかけるから脱毛する(介護脱毛)という一見するとよさそうな規範が社会に浸透して、これに従わない人を社会が排除していくからだろうなと。
私は、人間らしさ=不完全さ だと思うので、他者に迷惑をかけずに生きていく完全さを追い求めることは、人間らしさを手離していく動きにみえます。
議論パートでは、漫画のような人間像(毛がない・鼻が小さい・足が細いなど)から影響を受けて自分らしさというものが変化していくという話題もありました。
これを聞いていて私は、アバターによっても人々の理想が変化して、自分らしさが変化することが起きそうだなと思いました。
どちらにせよ”自分らしさ”というのは漫画やアバターなどから簡単に影響を受けるものなのだなと。
アバターなどを研究している人たちはこういった可能性を考えているのでしょうか。
漫画を描く人は普通考えないだろうし、考える必要はないのでしょうか。
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さきほどご紹介したリンクにもあるように、毛の次は排泄が排除されるというのは私も同感です。
セミナーのあとに『排泄も同じように邪魔もの扱いされるのでは…?』という危機感を覚えていたら、磯野先生がしっかり記事に書いておられました。
排泄ケアの研究をしている私は、ちょっと悲しくなりました。
当たり前にトイレに行けるから、排泄が邪魔になるのでしょうか。
逆にあまりにも介護が大変だと、排泄物なんて出なければいいのにと思うのでしょうか。
以前、家族介護者の方が「母が食べられなくなって尿も便も出なくなって、そのあと回復したときに『排泄できるっていうことはありがたいことなんだ』と思いました」とおっしゃっていたのがずっと印象に残っています。
看護師が排泄をサポートして、すっきりできたことに共感するというケアも、いつか不要になるのでしょうか。
排泄ケアの研究をしていて思うのは、排泄は単に老廃物を出すというだけのことではないということです。
排泄に羞恥心がある文化だから(ない国もあります。トイレに個室の壁がないとか)、羞恥心に配慮したケアから信頼関係がうまれます。
それに、排泄物から得られる情報はたくさんあります。病気の早期発見には排泄物の観察は欠かせません。
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何が言いたかったかというと、身体の一部や機能を邪魔もの扱いすることにはすごく違和感があるということでした。
「人に迷惑をかけたくない」と言葉は、患者さんからも周りの人からもよく耳にしてきましたし、ケアしている側は迷惑だと思っていなくても、ケアされる人は後ろめたく思ってしまうんだなと。
ちょっと調べてみると記事や論文も出ているようですね。
もう少しじっくり考えたいので、3月に行われる文化看護学会に参加して、考えてみたいと思います。
長くなってしまった…早く論文を書かなければいけないのに…
2024.1.21
いしざか
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