こんにちは、いしざかです。
秋ですね。博士論文を書いています。
サポーターのみなさんへのお願い
とうとう博論の謝辞を書き始めたので、リターンとしてサポーターのみなさんのお名前を記載させていただく準備を始めたいと思います。
こちらのフォームにご回答くださいませ。
開始当初からご支援いただいているみなさんはもちろん、最近ご支援してくださった方もぜひご記入ください。
【本論文は、学術系クラウドファンディングサイト「academist」で行われた「介護する人もされる人もハッピーな認知症ケアを実現したい」プロジェクトにて〇〇様、〇〇様 他●名の方々にご支援いただきました】といった形で記載する予定です。
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さて、話は変わります。
いつも出かける前にトイレを済ませるのですが、このあいだふと
出かける前にトイレを済ませるのは忘れ物をしないことと似ていて、置いてくるべきものを置いてこられた気持ちになるなぁと思いました。
あ、わりと高頻度で排泄のことを考えています。なにせ研究していますので。
それで、どうしてさっきまで自分だったものが、流してさよならしても何も思わないのか、むしろ置いてきてよかった~みたいな気持ちになるんだろうなと思いました。
爪とか髪とかにも同じことが言えそうですし、哲学上きちんとした議論がありそうですね。
この前、ラバーハンドイリュージョンが起きているときの脳活動を測定した研究のお話を聞きました。
ラバーハンドイリュージョンというのは、自分の手を隠した状態で目の前に偽物の手を置いて、両方に同じ感覚刺激を与えていくと、偽物の手の位置で刺激を受け取っていると感じるようになる現象です。
これについてちょこっと議論してみたのですが、
基本的には自分の手も他人の手も他(非自己)であると認識されるのですが、見ているもの(棒が手をつついている)と感じること(つつかれているなぁ)と一致すると、つつかれているものを『自分だ』と思うようになるようです。
腕を上げようと思うことと、腕が動くことが同時に起きると『どうやらこの体は自分らしい』と思うみたいな。ざっくりとした私の理解ですが。
ということは、もし便自体に感覚神経が通っていて痛みとかを感じるならば、
便は自己であり、排泄すると『あぁ流れていってしまった』と思うのかな、とくだらないことを思いました。
便を明確に非自己として認識していた場合、非自己の物質を体の中に入れておく感覚ってちょっと変な感じというか、やっぱり非自己とは言えないような仲間意識がありますよね。
元自分の細胞だし。
あ、便というのは、食べものの残りかすと古くなった自分の細胞などからできています。
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ちょっと頭が疲れてきたので取り留めなく書いてみました。
そもそもうんこが自分か自分じゃないかなんて考えませんね。
それではまた~
2023.9.22
いしざか
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